2015年10月30日金曜日

桂 由美(服飾デザイナー)     ・ブライダル衣装と私の50年

桂 由美(服飾デザイナー)     ・ブライダル衣装と私の50年
この50年間、日本の結婚式は形が大きく変わりました。
ブライダル業界の草分け的存在の桂さんに、この50年我が国の結婚式の変化と世相、創作活動の人生をお聞きします。

私の母が洋裁学校を経営していて心筋梗塞で急死してしまった。
美容院に通う暇もなくターバンをしたら、ぼろ隠しになり便利だった。(どんな場所にも出られる)
ブライド=花嫁 ブライダル=花嫁の
50年前は和装結婚式はほとんどだったので、ブライダルという言葉さえもなかった。
ブライダルショーをマスコミに出したら、翌日から電話が鳴りっぱなしになった。
林邦雄さんに電話して聞いてみたら、ブライダルを知らないということは返って宣伝になると言われて、この名称は変えなかった。
当時3%が洋装だった。(専門店が無いのでオーダーショップで頼むしかなかった)
木綿の安い生地で作ってから問題ないことが判ってから、本物の絹等の生地で3カ月程度で仕上がるが、OLのサラリーの6か月分位になっていた。
OLのサラリーの1カ月分で買っている事が、世界を調べてわかった。
40年前にブライダルハウスを建てたが、その時に既製服の話があり、ウエディングドレスを売りましょうという事で実現しました。
韓国、中国等はレンタルが多い、3着を着るので借りることになる。

父親は郵政省の役人で、母が小岩で洋裁学園を経営、不況の時代で、子供のそばで出来る仕事を選んで、洋裁と編み物を勉強して、今は大きな学校には成っている。
母と私は体格体形、物の考え方も似ていて、あまりいさかいをしたことはないです。
演劇をやりたいと言った時だけは反対された。
ブライダルの仕事を始める時も、学校はつぶさない様にするならばという事で賛成してくれた。
当時適齢期の男性が少なかった、女性は25歳になると売れ残りと言われた。
一番発言権を持っていたのは、男性の母親だった。
ウエディングドレスを着たいという時に親は賛成するが先方の母親は安っぽいことをやらないでほしいといわれるとひっくり返るので、最初の年は1年間で30人しかいなかった。
10年間は洋裁学校の先生として働き学校から給与をもらって、4人の給与、生地代を払うと店の収入は無くなってしまって店での私の給与は10年間なかった。

女子大でアンケートを取ってみたら40%が着てみたいとの事だったが、当時親が反対していた。
適齢期のOLの1カ月分のサラリーで他の国々は行っていたが、日本ではそうなるまで10年掛かった。
その時には13%ぐらいになった。(式服は着物、お色直しに着る)
1980年台後半はチャペル建設ブームになる。
式服が洋装に逆転したのが1993年です。
安っぽいとバッシングされたが、和装に匹敵するドレスを作ることを最初にやったわけです。
アメリカでは日本のドレスは安かろう悪かろうと言われていたが、日本の54社が、アメリカの1流ホテルを3日間借り切ってイベントをやったわけです。
シルクを褒められて、デザインも細やかであると褒められた。
アメリカの結婚人口は日本の3倍あり、年齢層も幅があり、ターゲットも考える必要がある。
1981年ダイアナ妃の結婚での流行でだめだったがユミラインがその後注目された。

私は結婚したが、届を出しただけで式はなかった。
私は人を綺麗にすることが仕事です。(自分自身を綺麗にすることは?です。)
或るとき、ピエール・バルマンが店に来てくれて、貴方が羨ましい、自分はこの世で一番美しいのは花嫁姿だと思っているが、自分はオートクチュールで仕事をしているが年に3,4回しかウエディングドレスを手掛けることはない、貴方は毎日やっていてウエディングドレスに囲まれて仕事をしていて、羨ましいと言われて、体が震えました。
一時期結婚式が商売になるみたいなイメージがあったが、逆だと思う。
結婚式の時ぐらい、赤字でとは言わないが、利益を上げるとか私にはそういう気持ちはないです。
周りで祝ってくれるような市民参加型の結婚式は無くなってしまった。
家から出発する様な市民の眼にさらして、特に子供に花嫁姿を見せる、それから式場に行くふるさとウエディング運動をやっている。
2007年からは「恋人の聖地」(現在日本全国に125ヶ所、海外に4ヶ所誕生)を認定・育成する運動を開始。

芸能人のステージ衣装、水森かおりさんの衣装を20年ぐらい行っている。
紅白で片方は越前和紙を使って行う。
製作期間は2週間だった。
当時日本の遅れている面、特にブライダルの面、欧米に遜色ないものに日本の婚礼をしたいと思ってやってきたが、日本の着物は他の国にはない芸術性を持っているので、日本の誇りなので和洋の両立を勧めていて、和装も着た方がいいと言っています。
皆で祝福できる結婚式を広めていきたいと思っています。