鮫ヶ井嘉子(フラダンスインストラクター) ・フラに癒された介護の日々
横浜市出身 商事会社に勤めていた時に母親が倒れて40代半ばで会社を辞めて父親と一緒に介護を始めました。
以来17年間におよぶ介護が続きます。
先が見えない介護の日々を慰めてくれたのが近所のスポーツクラブで出会ったフラダンスだそうです。
鮫ヶ井さんはご両親を看取った後、日本フラダンス協会公認のインストラクターとして舞台でフランダンスを披露したり、教室で教えたりしてフラダンスの魅力を伝えています。
43歳の時に母が脳梗塞で倒れて、半身不随になり介護を始めました。
もともと血圧が高くてお医者さんに掛かっていたが、倒れた時に主治医に電話して、救急車で行きたくないと言う事で医者が来て、布団を敷いてくれてそこから家での介護が始まりました。
病院に行くと帰れないとの思いが強くて、家にいたいと言う意志が凄く強くて、父と私で介護しました。
出勤前に朝食を作って、お昼も作って出勤して帰りに買い物をして夕飯を作りという様にして3年ぐらい続きました。
父がタオルで熱くして患部にあてて、曲げたり伸ばたりしてリハビリをして、良くなってきて杖をついて歩けるようには成りました。
その時母は73歳 父は80歳近かった。
今思うと家で介護できたのは良かったと思う。
おむつをあてたくないと言う事で夜中にも2時間おきぐらいにトイレに連れて行ってました。
自分も病気になったりして入院したので、ヘルパーさんを頼むようになり、結果的には良かったと思います。
ヘルパーさんは初めての経験の人でお互い手探りで、いい関係でやれたと思いました。
その後その人はケアマネージャーの資格を取ったので、又次の人が来るようになりました。
デーサービスの情報が入ってきて、デーサービスも週に1回行くようになり時間的にも余裕が持てるようになりました。
介護をして時間ができて来た時に、散歩に出かけたりして、身体全体を動かしたくなりスポーツクラブに入って、1時間ぐらいスポーツクラブに行っていた。(行き帰りを含め2時間)
その時にフラにめぐり合うことができ、はまってしまってそれからの付き合いになりました。
癒される音楽、一つ一つの手の動きとかに意味があり、興味を持った。
ハワイ語を使うので、一つ一つ勉強しているとそれも覚えてゆく楽しみもあった。
段々判ってくるともっと楽しくなってきた。
花、雨、風、ヤシの木、波等を手の指先、手全体、身体とかで色々表現する。
心があるので眼とか顔の表情で気持ちを表す。
喜び、悲しみとかを顔で表現するが、フラは笑顔が多いので癒されと思う。
「アロハ」 は色々な意味がある。
旅行と言えば1泊はできず、母がデーサービスがあった時に横浜とか鎌倉あたりに行ってくるぐらいだった。
スポーツクラブで新しい友達ができるようになった。
忙しくても、短くてもいいから如何に楽しい時間を作るかが大事だと思います。
母が気力を失わない様に、料理にしても母に味付けをして貰うとか、母ではないとできないと言う様に、母が必要な人間だと言う事を思ってもらう様に心掛けました。
季節感を味わってもらう様に1年の行事を色々やりました。
正月の行事、お雛様、お花見、十五夜(母はウサギ年)、等季節感を大事にしていました。
身体は段々衰えれて行きましたが、頭は亡くなるまでしっかりしていました。
倒れたあとも白内障の手術をしました。
完全看護は一緒に泊まれない時があり、頼み込んで廊下の待合室に寝たりしたこともあります。
父は元気だったが、或るときに健康診断で急性骨髄性白血病であることが判り、それから入院、輸血もしたが、89歳で亡くなりました。(父の方が先に逝ってしまった)
父は明治の人で弱音を吐かない人だった。
母もあまり弱音を吐かなかったが、90歳で亡くなった。(17年間の介護だった)
来るべき時が段々ときたなと思ってある種の覚悟ができていたのか、その時は涙は出なかった。
介護はこれでいいと言う事は無いと思う。
親戚、近所の方から、もう貴方はこれだけ介護したんだから、好きなことをしなさい、何でもやっても誰も文句を言う人はいないと言われて、直ぐに自然とフラの方に行きました。
インストラクターとして現在活動しています。
教えながらも癒されています。
ハワイにもたびたび行っています。
舞台、イベントでは付けまつげ、口紅、髪の毛をアップしたり、ドウランを塗ったり衣装を着てある種の変身、日常から離れた世界に入るので、それが楽しいと言う人もいます。
80歳ぐらいの人もいるので年齢に関係なく自分のレベルに合った踊り方をすればいいと思います。
教室の来年発表会があるので頑張りたいと思います。