2015年10月10日土曜日

西山 厚(帝塚山大学教授)    ・仏に学ぶ 悲しみの力

西山 厚(帝塚山大学教授)     ・仏に学ぶ 悲しみの力
62歳 昭和28年徳島県生まれ、 京都大学に進む。
去年の春まで 30年余り、奈良国立博物館で仏教の文化財を中心に、調査、研究、展示の企画に取り組んできました。
奈良に足場を据え仏教の研究を続ける西山さんに伺いました。

大仏は奈良時代に聖武天皇が作ったが、どうして大仏を造ったのかという根本のところが一番大事な部分だと思う。
聖武天皇以外の人間には、極論すれば判らないはず。
聖武天皇がとても苦しんでいる人だったから、とても魅力を覚えるようになった。
干ばつ、飢饉、大きな地震、天然痘大流行、内乱がおき戦いがあり、自分の子供も亡くなる。
聖武天皇は本当にすべての生あるものは、幸せになってほしいと本当に思っていた人ですが現実は凡て逆、逆、逆で、聖武天皇は自分の政治が悪いので、天が罰を与えるのだと、思った。
聖武天皇は苦しむわけですが、どんなふうに苦しんでいたのかを想像してみる必要がある。
僅かでも聖武天皇の苦しみを想像する事ができた人だけが、聖武天皇、大仏のことなどを理解できるようになるのではないかと思っている。
聖武天皇は大仏を造ることにするが、「大きな力で造るな、沢山の富で造るな」と不思議なことをいう。
さらにこう言います。
「一本の草を持ってきて、私も大仏造りを手伝いたいと言う人がいたら、その人に手伝ってもらいなさい、土を持ってきて、私も大仏造りを協力したいと言う人がいたら、その人に協力てもらいなさい」
造っている最中に日に3回 来拝せよと言う、又かかわった人が皆心の中に自分の大仏を造れとおしゃっている。
大きな力、沢山の富ではなく、一本の草を持ってきた人達と大仏を造りたかったことは事実であり、
そういうやり方で大仏はできた。
かかわった人は260万人という記録が残っているが、当時の人口はおよそ500万人と推定されるので半分、多くの人たちが小さな力を集めて大仏はできた。

大仏ができてもちっとも変らなかったが、大仏を造ろうとした理由は全ての動物、植物が共に栄える様なわく?徳?(聞き取れず)を造りたい、だから私は大仏を造ることにしたと言っている。
天平勝宝4年 752年 1260年余り前に大仏はできるが、大仏は2度戦に巻き込まれ焼かれている。
平安時代末 東大寺は源氏の側についていたので平家に焼かれてしまう。
東大寺に隠れていた1000人が焼かれ、大仏も溶けてしまう。
重源が又大仏を造りたいと思って動いた。
日本全国での寄付集め 「尺布、寸鉄といえども」という言葉が残っている。 
表現は違うが聖武天皇と同じやり方で大仏ができるが、又戦国時代に焼かれる。
重源が再建した大仏殿は戦国時代永禄10年(1567年)、三好三人衆との戦闘で松永久秀によって再び焼き払われてしまった。
公慶という坊さんが出てきて復興する事になるが、全国寄付集めをする。
「一針、一草の喜捨でいい」と言って同様に寄付集めをする。

聖武天皇の願いが1300年近くもたって、表現は違うが受け継がれているが、その根底にあるものとは、仏教が悲しみの中から誕生したという事ではないかと思う。
約2500年前インドで、若い女性が子供を生んだが、酷い難産で赤ちゃんは元気だったが、母親は7日後に亡くなった。
赤ちゃんはお釈迦様だったが、母親を知らなかった。
自分を生んだから母親は死んだと考えて、抜け出られない様な袋小路に入り込んでゆく可能性があるが、お釈迦様は袋小路から出てきた。
結局は人は皆死ぬ、一人の例外もなく死ぬ、そうしたら人生とは何なんだろう、生きていく意味とは何なんだろう、楽しいことがあってもやがて老いて病んで死んでゆくので、楽しいこと等意味が無いのではないかと考え始める。
老いて病んで死んでゆく人生に深い喜びがある、幸せに死んでゆくという道はきっとあるはずだと思って、出家して、悟りを開き仏教が誕生する事になる。

お母さんが死んだことが仏教を誕生させた、仏教は初めから悲しみ、苦しみと共にある。
仏教はとても優しい、悲しみ苦しみの中から生まれてきたので。
仏教は耐えがたい悲しみ、耐えがたい苦しみの中で、もう自分一人ではとても生きられないと思う時に仏教は初めて意味を持つ。
死にかけている人はそのまま死んでゆくが、それにもかかわらずそこに安らぎの道がある、仏教はその道を示しているものであると私は思っている。
大仏も聖武天皇の苦しみの中から生まれたものであり、そういうものは歴史の中で無数にある。
それが1000年、2000年経っても、同じような悲しみ、苦しみを感じている人にフィットするんじゃないんですかね。
苦しみ、悲しみを通して歴史を見るのが私の基本になっていることは確かです。
父は歴史学者、母は毎晩寝る前に般若心経と観音経を唱える信仰心の篤い人でした。

3歳の時に、母が大病、入院、大手術する事になる。
戻ってきて10年再発しなければ助かると言われていた。
母は小さな観音像をもって嫁いできた人で、寝る前に毎晩般若心経と観音経を唱えていた。
父も病気だった。
何を残せるかを両親は考えて、私に仏教童話全集を買ってくれて、私は仏教に出会った。
人は病気である事が当たり前だと思っていたが、病気で無いと言うのは余ほど恵まれている事だと思う様になりました。
病気が治らなくても幸せにはなれるし、年老いて歩けなくなってもそこであたらしい幸せはあるはずです。
大学の時に、明恵上人を知った。
全部正確に知りたいと思うようになって大学院に進みました。
明恵上人はピュアでひたむきなところが好きで、もっともっと知りたいと思う様になりました。
インドの仏蹟を回ったり、修士論文も明恵上人だったが、そんなことしているうちに奈良国立博物館に入ることになった。
明恵上人も8歳の時に両親を亡くしているが、それが無かったら坊さんには成らなかったかもしれない。
叡尊 奈良の西大寺を復興した坊さんで7歳の時に母親を亡くしている。
「3人の小児を懐の内におきて、逝去しおわぬ」と書いてあって、抱きしめながら死んだと言う事です。(7歳が叡尊 5歳 3歳) 
叡尊の人生を決定付け、社会福祉的なことをやり続けてゆく。
85歳の時に簡潔に書いているが、文章以上に心に沁みるものはないです。(涙ぐみながら話す)
悲しみは悲しみだけで終わらない、悲しみが行動の原動力、力になる。
悲しみや苦しみはその人を奮い立たせ、進ませる、やり遂げる力になる。
小さい時に母親を亡くして偉いお坊さんになった人は結構います。

悲しみ、苦しみはマイナスではない、そこから生まれてくるものがある。
日本の仏教が今目指しているものは、悟りではないと思う、異論反論があるかと思うが、求めているものは「安らぎ」だと私は思う。
「心満たされて安らかに生き、心満たされて安らかに死ぬ」 これが目指すところであり、仏教によって可能になると私は思っている。
老いて病んで死ぬことに変わりはないが、そのなかで大きな安らぎを感じつつ死んでゆく道はあると思っています。

金子 みすゞさんが大好きで、素晴らしい詩がいっぱいあります。
金子みすヾの「さびしいとき」の詩
「私がさびしいときに、よそその人は知らないの。 私がさびしいときに、お友達は笑ふの。 
私がさびしいときに、お母さんはやさしいの。 私がさびしいときに、佛さまはさびしいの。」
これは日本仏教の一つの到達点だと思う。
「私がさびしいときに、佛さまはさびしいの。」そのことが安らぎになるんです。 これが救いなんです。
共にある。 いつでもそばにいる。 いつもそばにいる。 それって大きな安らぎになる。
仏教は悲しみと苦しみの中から生まれた、悲しみや苦しみの中にいる人に仏教は優しい、いつもそばにいる、それに支えられて、苦しみ、悲しみが消えなくても、人は心安らかに生きてゆく事が出来る。
苦しみ、悲しみの中から何か新しい大切なものが生まれてくるかもしれない。