上山良子(長岡造形大学 前学長) ・美しき庭園の島・日本
75歳 ランドスケープアーキテクチャー 、ランドスケープデザインという言葉 共に公園や建物、街づくりの際には風景や土地であるランドスケープを人のために最適にデザインする事が必要だと言う考え方です。
アメリカのカリフォルニア大学で建築と街作りとの関係、ランドスケープデザインを学ばれた上山さんはかつての美しい日本を取り戻したいと、昭和57年に帰国され、新潟の長岡平和の森公園、東京三田の芝薩摩の道、長崎水辺の森公園等を手掛けられ、世界的に評価されているランドスケープデザイナーです。
インテリアデザイナーになりたかったが親が反対して、上智大学に英語を勉強に行き、3年の時にル・コルビュジエの展覧会があって、見て全てで素晴らしく、それから急に猛勉強を始めました。
ドイツのウルグ造形大学があり、ドイツに行こうと決めました。
工業デザイナーの清水千之助先生のところに行き個人教授をお願いした。
大都市の中にハイウエイとハイウエイと道がぶつかるときに、どういう形に道をつないでいったらいいかという様な大きなスケールから小さなスケールまで、デザインの眼を広げてくださった。(50年以上前)
ドイツに行こうとした時に父が末期がんで、父がいる間には日本を離れるなという事で、千葉大の研究室に入ったがちょっと違っていて、ジャパンタイムスを買ったら、スカンジナビア航空が5年ぶりにスチュワーデスの募集があり、ストックホルムで研修が2カ月あるという所に眼が止まり、そのことだけで応募する事にし、受かってしまった。
世界をみてからデザイナーになるのもいいと、言われた。
飛行機に乗って感じたことは、大自然の素晴らしさもあるが、人の作った町や村を見て、どういう職業がこういうものを作っているのだろうと思っていたが、ランドスケープアーキテクチャー の職域があることがずーっと後に判る。
ローマなどを見て、東京の羽田に戻るとなんでこんなに汚くなってしまったんだろうと、150年前はイギリスの人から素晴らしい庭園島と言われていたのに、と思いました。
ここにデザインの分野があってしかるべきだと漠然と思っていました。
スペインのロンダという小さな町に一人で旅に出掛けたが、或る宣教師から絵が好きなら、絵筆、パン、ギターをあげますから私の助手になってほしいと言われたが、まずは日本に帰ってから出直そうと思った。
日本に帰った途端に、インテリアデザイナーの話があった(大阪万博 昭和45年)
NTTの建築局に雇われる。
インテリアデザイナーをやってゆくが、小さなスケールでもっと大きなスケールの物をやりたいと思っていたら、京都の庭園を勉強しに来ている人がランドスケープアーキテクチャーだという事で、土地の資源をきちっと捉えてそこに必要な場所を作ってゆく、人のため、社会のために作ってゆくという事で、これは私がずーっと思っていた職域ではないかと思った。
バークレーがいいからとにかく行きなさいと言われて、全部なげうって勉強しなおそうと思いました。(30代中盤だった)
これは素晴らしい学問だと思った。(森林学、植物、地質等の学問が必要)
1年分のお金しかなかったので、1年目でAが取れないと駄目なので、本当に一生懸命勉強しまして、Aが取れました。
2年目にローレンス・ハルプリンというランドスケープアーキテクチャー業界では世界で1、2の方の1週間の特別講義があり、ワークショップと言う言葉を世の中に出した方で、彼は場を造る時にそこに住んでいる意見とかをきちっと捉えて、いい場所を作っていくんだという考え方で、特別講義に参加しました。
自然の中で自分はどう反応してゆくか、大地を読み解く感覚を訓練してゆく、それが素晴らしかった。
貴方の死の場所を探しなさい、貴方の生の場所を探しなさいと二つのテーマを言われて、これって本当にランドスケープアーキテクチャーの真髄ではないかとふっと思った。
これは私が求めていた分野なんだと思って、先生にお会いしたことが私にとって目指すことが明確になりました。
宇宙との関係性でその場所を解いてゆく、或る一点は世界の中でここしかない、そういう事を頭において、誰かがそこに座った時に宇宙の中で自分自身がこんなちっぽけな存在なんだという事を思わせるような場作りをしたいと、そこからスタートしています。
公園を造るのにも重要な基軸が必要、宇宙との関係性、一つのコンセプトとして場作りに生かしていかなければいけないなあと思う様になりました。
土地の記憶(歴史)、人の営みを含めて持っている記憶を捉えてデザイナーとして次のページ(層)を作っていかなければいけない。
上から眺めた時に、ランドアート 大地の芸術でなくてはいけない。
生命に学ぶ持続的な場所作りでなくてはいけない。
それは日本ではそういう思想があって、だから綺麗な素晴らしい風景が継承されてきたが、どこかの部分で忘れられてきた様に思う。
風景、建物、場所が融合していた、素材、色を一緒にするとか統一感とか、文脈的に場を造るDNAがきちっとあった。
高度成長期が悪かったと思います。
1980年 アメリカから帰った時に郊外の風景があまりに酷かった。
ランドスケープアーキテクチャーのやるべきことはいっぱいあると思ったが、それは大きな間違いだった。
個人の実力で何でも仕事が与えられる様な社会ではない。
日本でスタートし、建設省に手紙を書いたが、駄目で仕事が与えられず、講義をしたりしてランドスケープアーキテクチャーは何かという様な事から始めました。
フィンランドで公園のコンペティションがあり、私が選ばれ日本から1チーム、アメリカ、ヨーロッパから各1チーム参加して特別賞をいただいた。
フィンランドの環境教育の教科書を頂いたが、風景と自分の家との関係性を小学校から教える。
こんな山をカットしてはいけないとか、基礎的なことを教える。
おかしいと思った時に吸いあげるシステムが無いといけない。
サンフランシスコで小さな野外劇場を作るにも、専門家、市民があつまる委員会があって、議論して市民の声が行政につたわってゆく。
スイスでは小屋一つ建てるのにも、周りの人に聞いて行う。
100年、200年先を目指しながら、一つ一つの場所に対してそこにしかない、文脈的に解いてゆく、新しい21世紀の庭園島 作法をとらえて作っていかなくてはいけないと思う。
ポイント、ポイントとしては有っても、総合的に自然でないと庭園島とは言えないと思う。
先人たちが知恵を絞って残してきたものは、きちっと残していかなければいけないと思います。
長岡造形大学で、これは面白いとその子に思わせると、とことん勉強しますし、面白い伸び代がある。
①自分のやりたいことはとことんにやれ、②自分は人のために何ができるか常に考えなさい、とこの二つを常に言って来ました。