72歳 昭和18年台東区生まれ 早稲田大学に通っていたころに短歌に出会いました 。
大学卒業後 仏門に入り住職として修業を積みながら、歌を詠み続けてきました。
30歳を過ぎたころから、音楽に乗せて短歌を絶叫するコンサートを始め、そのステージはこの40年で1500回を越えました。
僧侶として死者をともらう一方、歌人として黒いサングラスに帽子、黒いシャツといういでたちでステージに登り、自ら詠んだ挽歌や亡くなった歌人達の作品を叫んでいます。
心の中で歌人であったり僧侶であったりします。
物を考えるときは両者が混じり合ってせめぎ合います。
大学に入って詩人会の部室に行き、その時たまたま短歌の集まりがありそこから短歌は始まりました。
彼らが社会的な事、歴史的なことを歌おうとしている事に気付きました。
自分自身の意識が少しづつ変わっていきました。
学園闘争の中から、討論し、スクラムを組み戦っていく中で連帯意識を体験しました。
人と人との結び付きを考える契機となり、呼びかけのしゅけい?(聞き取れず)としての短歌に気が付きました。
1965年からの学生闘争 「後の思いに」 今年CD
歌人は語り部だと思っていて、繰り返し繰り返し伝達していきたいと思っている。
自分の心に中では何も変わっていないので、自分の意識の中で、記憶を引きずってずっと闘い続けています。
今回の安保法案が採決された時に国会に行きましたが、日韓闘争の事をまざまざと思い起こされて、まだ何も終わっていないと思いました。
一番いけないことは人は戦争を忘れてしまっている、戦争の体験の事を語ろうとしなかった。
全共闘世代がちゃんと自分たちの戦いを伝達していればこういう時代は来なかったと思います。
私は短歌を作っているので忘れることはありません、現在に呼び寄せる作業になっている。
父は関東大震災、空襲に遭い、2回に渡って持物を全部なくしたり、兄弟を失ったりして生きてきたが、我々は60年安保闘争があるが、何も失ってこなかった。
何もなく一生を終えるのではないかとたかをくくっていたが、2011年大地震、原発事故が発生し、すべてがゆすぶられてた、私の心がゆすぶられた。
320万人の日本人が戦争で亡くなった事実を忘れてしまっている、大震災を通して改めて思いを強くしています。
戦争体験した短歌
「一片の骨 を砕いてセメントに 絵を描いている小さな指が ろうせきと思えて拾う焼け跡の 白くとがっていたっけ骨は」
ろうせきだと思って手に持って書いていた物は骨だった、母から怒鳴られた思いがある。
短歌は記憶の再生装置だと思っています、詠むとその場面が再現されてきて、その時の切なさ、悲しさがよみがえってくる。
心の身もだえを身体中で、声を出して表現しています。
教師になりたかったが、兄が後を継がなくて、又早大闘争の中でコミューンと言うものを知って、新し社会を作っていけるのではないか、そんな思いで坊主になりました。
人間の連帯は社会的な連帯と同時に、生まれ、愛し、死んでゆく悲しみの連帯、とりもなおさず業の世界であり、坊主の世界ではなかったかと理屈を付け自分を納得させました。
嫌でたまらなかった坊主がこんなに必要とされるのかと、初めて体験して心の中で感動しました。
当時1970年代ですが、ともらうという事の大切さ、を知りました。
臨終の時に呼ばれて、お経に合わせて口をもぐもぐして、やがて息を引き取って逝きました。
命の終わりはあるわけで、終わりをしっかりと告げてやる、納得させてあげる、そして次のステップが仏教ではあるので、次のステップへみちびいてやる、それが坊主の仕事だと思います。
妙蓮寺に骨を埋めるつもりでしたが、檀家の人たちを全部おくるつもりでしたが、本堂を建てることになり、建ちあがったとたんに、岩に腰をおろして本堂を見ていたら、急に東京に帰りたくなって、
東京に帰ることになる。
小さなかなり朽ちた寺があり、住職が亡くなり、そこを復興するようにとの命があり、せめぎ合いの中でそこに行こうと決めました。
東京では文学活動をしたかった。
「村人を あざむき おやを裏切って 月光の中 溺れるごとく」
生涯であんなに泣いたのは初めてでした。
懺悔 歌を求めました、それによって弱い心を書きとめておこうとしました。
自分が歳を取ってくると別れる人たちが多くなって、1978年にクラスメートが内ゲバで4人殺され、周りには自殺した人がいたり、東京に来てから私の寺で友人の詩人、作家、を亡くしてきて、40歳近くでともらうと同時に、短歌に詠み、短歌の中に死者が出てくる。
黒田和美) 早稲田短歌会の同期の友人が死んで、直ぐには歌はできなかったが段々歌ができてきて、100首ぐらい作ってきました。
歌う事によって、共に闘う事が出来、共に生きることができます、だから誰も死んでない。
無念を濃くしていかないと思います、無念に迫っていかなくてはいけないと思います。
1960年12月に学生歌人岸上大作が亡くなった、死者を背負い続け、歌い続けてきました。(21歳亡くなる)
「美しき誤算のひとつ われのみが 昴ぶりて 逢い重ねしことも」
「血と雨にワイシャツ濡れている無援ひとりへの愛うつくしくする」「僕のためのノート」 自殺する直前に書いたもの。
「学生服だけはちゃんと着ておこう ・・・敗北した僕に花を飾るのは無駄だ 生き残ったものこそ花でうずめよう 生き残った者は強く生きろ 「お母さん」というのは嘘だ 僕は僕のことしか考えていない ・・・ 純潔でなければ もしやかくまでも ましろき蕾 震えるおやべを・・・いちじくの
葉よりこぼれる したたりの 女体というを 知らずに死にき・・・」
女を知らないで亡くなったそのせつなさを判らなかった、今になって判る、それまで判らなかった。
悔しさを深めてゆくと言う事はドンドンその人への理解を深めてゆく事でもある。
思いを越えて行かないと、供養にはならない。
岸上がやりたかったこと、できなかった事をちゃんと歌ってあげてやっている、歌う事によってこんな供養はないと思う。