2015年10月11日日曜日

浜田知明(版画家・彫刻家)     ・反戦の思いを作品に込める

浜田知明(版画家・彫刻家)     ・反戦の思いを作品に込める
97歳 大正6年 1917年熊本県御船町に生まれた浜田さんは東京美術学校(東京芸術大学)に16歳で入学しましたが、昭和14年熊本歩兵連隊に入隊し、中国大陸で戦争を体験しました。
二度の戦争体験をもとに終戦後1950年代に初年兵哀歌の銅版画シリーズを発表します。
世界が注目し、日本美術界に大きな感動と衝撃を与えました。
今も熊本市内の自宅で新聞に隅々まで目を通し、モチーフとなる題材を見つけて作品を作っています。

モチーフが浮かんできましたら、自分が考えている事をどういう風にやったら見てくださる人に伝わるだろうかと一番に考えます。
特に彫刻の場合は頭にでき上っています。
頭の中にでき上っている作品をただ手で作ってるだけです。
自分が考えている事がよく伝わるだろうかという事は気になりますが、あんまり張り切ってやるのではなく、子供が粘土細工をやっている様なことの延長だと思っています。
初年兵哀歌のシリーズの作品  
兵隊は皆生活をしてゆく上で軍事演習から日常生活等を全部覚えてゆくわけですが、二等兵を一番の底辺として、その上にピラミッド型に階級ができていて、上官の命令は朕が命令と心得よと言う事で、全部天皇の言葉として受け取らなければいけない。
一日でも早く入ったものの言う事はいくら無理でも初年兵は受けなければいけない。
初年兵の時に随分虐められて、軍隊から帰ったらどうしても作品にしたいとずーっと考えていました。
戦場に行けばそんなことはないだろうと思っていたが、そうではなくって、軍隊のいやらしさ等戦場に行っていろんな場面を見たりして作品を作ろうと思うようになってきた。
人から押さえ付けられると言う事は非常に不愉快で我慢できなくて、この社会は自分のいるところでないと思いまして、よく自殺する事を考えまして、銃で自殺している作品があります。
初年兵は時間が無いのでスケッチする間もないので、頭の中で考えなければしょうがなくて、それで作品によっては頭の中で構図はできていて、それを帰って来てから作品にしたのが初年兵哀歌です。
他に絵描きも戦地に行っていると思いますが、他に描く人がいないと言う事は不思議に思います。
風景画、裸婦を描いたりして不思議に思います。

22歳で戦争に行きました。
学生時代に戦争がはじまり、一番親しかった友人が学校に入る前に、軍隊をすましてきて戦争が始まったらすぐに招集をかけられて、翌年には戦死してしまいました。
一年先輩はほとんど招集されたが、一人だけ行かなかった人がいて、戦争に行かない方法があるとささやいてくれたが、日本軍がどういう事をやっているか見てみたい気があり、戦場には面白いモチーフがあるかもしれないと、けしからぬ考えですが、戦場を見たいと言う気持ちはあった。
うまい方法をつかって逃げたと言う事は一生の負い目になると思い、人並に戦地に行きました。
動作がのろい、声が小さいとかなんとでも理由を付けて、殴りましたが、なぐりかたも普通ではなくて、両足を踏ん張らせ、歯を食いしばらせ、殴った時に倒れたり舌をかんだりしない様に準備させておいて拳骨で力いっぱい殴る。
青竹で尻を殴る時でも怪我をしない様に前に手をついて尻だけ出して準備させて殴る。
毎日殴られていると、ボクサーの顔の様になって慣れてくるが、いくら殴られたり蹴られたりしても何も感じない様になった時が一人前の兵隊になっている。

点呼の時に軍人勅瑜を覚えなくてはいけなくて、私は言うのが嫌で忘れましたと言うと班長がぶん殴るが、抵抗の方法は無く自分流の最後の抵抗だった。
反抗している事は判っていたので倍叩かれた。
歩兵砲部隊に入って、山岳地帯では大砲、戦車は登れないので、分解して積んで行った。
人一人しか通れない様な道を馬も行きますので、休む時は馬の前に立って休みました。
いつどこの隊に入るかで命に関係してくる。
帰ってから再度新島に招集された。
サイパン、硫黄島に配属されていたら日本に帰ることはなかった。
兵隊は戦争をしなければいけないからやりますが、やっぱり無事に帰りたいと言うのが一番です。
新島に行った時は1/3が招集兵で、家庭持ちの年寄りが多くて、家庭のことばっかり話していて、この人たちと一緒に戦争できるのかと思っていました。
重大放送があるという事で聞きに行って、戦争に負けたことが判った。
最初に考えたのは命が助かったこと。

生き残って絵が描けると考えたが、軍隊が無くなる、軍人がいなくなる、もしかしたらわれわれ日本の文化の再建に参加する事ができるかもしれないと考えた。
日本の軍隊が中国でやっている事はだいとうあけん?(聞き取れず、大東亜圏?大東亜共栄圏?)等が言っているのは嘘っぱちだと考えている。
自分が日本の軍人であることが嫌でして、自分が中国人であったら志願して日本軍と戦いたいなあという気持ちがありました。
日本軍の中に入っている事が嫌だった。
戦後70年という事で新聞等で語っているが、満州の引き上げ、空襲で焼け出されたとか苦労したことは話すわけですが、自分たちの軍隊が中国でどういう事をやったかを全く話さない。
日本が重慶を爆撃しているがそういうことについては何も言わない。
最近日本軍の兵士が描いた本をいくつか読んでいるが、如何に日本軍が勇ましく戦ったかと言う様なことは書いているが、どういう悪いことをしたかは書かない。

終戦後ロシアの兵隊が満州、北朝鮮に入ってきて随分無茶苦茶なことをやって、日本の兵隊の文を読みますと全く同じことをやっていて、男を殺す、女を犯す、物は奪う、家は叩き潰す等、そういう事を皆知らないと思います。
今の政治家も全然戦争の時の事を知らないので自分の国がやったことを認めたくない。
日本はよその国と付き合って行くと言う事はまず自分の国のやったことを謝ることから始まると思うわけです。
村山さん、河野さんがやったことは人間としては本当の道だと思います。
自分たちの受けた被害の事は知っているが相手の国に与えたことは知らない。
戦争裁判で負けたから勝った国によって裁かれたという風に皆思っているが、そうかなあと思う、日本人によって裁かれなければいけなかった事ではないかと思う。
あの戦争には全国民が賛成してやったと言う風になっているが決してそうではないと思う。
戦争に反対と少しでもいうと、非国民という事になってしまう。
友達も当時左がかった思想で、進歩的な思想だったが、卒業前につかまってしまって、昭和14年から昭和20年まで刑務所に入っていました。

一億総懺悔などと言われるが、私は懺悔しなかった。
学生等に教えるのは愛国心ではなくて、いい人間としての良心だと思う。
国があって国民があるのではなく、国民があって国があるという考え方です。
今の時代は、非常に戦争前の風潮に似てきている。
日本の国民は付和雷同性が強いのかなあと思います。
今更裸婦、風景画を描く気は全然ないので、今までやってきた延長だろうと思います。
一番上に猿がいて人間が支えたり、椅子が支えたりしている作品があるが、あれは田中角栄の構図です。
おべっかを使って自分の立身出世を考えている様な、ちょっと皮肉ってみたい。
一番面白いのは人間だと思っていて、人間観察しているのが一番モチーフが多い。
最初は漠然としているが頭の中で考えているうちに段々形ができて行く。
もう歳なのでいつ逝くかわからないないが、寝ているうちに逝くのが理想だと思っています。
ピカソがそうだった、その晩まで元気でいてベッドの中にスケッチブック等を持っていてそのまま死んでました。
死ぬっと言う事は結局は眠りが長い、それだけのことだと思っている。