保阪正康(ノンフィクション作家) ・昭和史を味わう 第21回 新しい教育制度
6・3・3・4制の誕生 昭和20年 8月ポツダム宣言が戦後日本の大本。
13条からなっているが、6条、7条 日本人の国民の意識が自由に表明できるような制度、意識を持つまで私たちは占領を続けると言っている。
教育内容について強い意志で監視すると言っている。
国家主義、軍国主義の教育は廃止せよ、市民の権利を自覚する様な新しい国民に成れと言うのが、アメリカ側の意志だったと思います。
民主化に関する 5大改革を急ぐように指示。
①女性への参政権、
②労働組合を作りなさい
③司法 秘密警察を撤廃
④経済制度を民主主義化しなさい
⑤学校教育の軍国主義教育を止めて自由主義教育に切り替えなさい。
⑤を進めるにあたって
a教科書の全面的な改定
b複雑だった教育制度を一本化するように指示
a教科書の全面的な改定
アメリカが命令していない中で文部省の意図を受けた先生たちが自発的に軍国主義的なところの、教科書に墨を塗ってゆく様に指示する。(3~4カ月続く)
昭和21年入学生は先生がガリ版印刷でそれを教科書としていて、かなり混乱していたようだ。
b複雑だった教育制度を一本化するように指示
マッカーサの要請でアメリカの教育学者30人位が昭和21年3月 日本に来て、視察、分析する。
日本でも教育者委員会を作って、調整の会議などもやってアメリカ側と話し合った。
一番重要なのは6・3・3・4制の制度
国家主義的な教育の全面的な中止
民主的な学校にしてゆく、男女共学制の導入。(女性の地位を高めるためもある)
教育基本法 昭和22年3月
①自主性を尊重する。
②個人の能力を発揮する様な教育の場の提供。
③国家があまり教育の現場に介入しない。
学校を造る予算が無くて、段階的に制度を導入するように要請したが、GHQ側はすぐ実行するようにとの指示があった。
「山びこ学校」 無着成恭先生 地方での一つのテストケースといわれる。
つづり方教室 自分で意見を表現する、どの様に成長して行くかを一番良く示すと思う。
『山びこ学校』の中学生の答辞 佐藤藤三郎さん 昭和26年3月
「私達が中学校に入る頃は、先生というものをほとんど信用しない様になっていました。
私達は昭和17年の4月小学校の一年生に入ったのです。・・・
戦争が終わったのが昭和20年8月15日でした、私達が小学校4年生でした。
先生というものは分殴るから恐ろしいものだと思っていたのが、急に優しくなったので変に思いました。
そのころから急に「勝手だべー」という言葉がはやり出しました。・・・
お父さんの煙草などをふかしたりしました。
お父さんに見つけられてしかられると、「勝手だべー」と言って逃げていく子になってしまったのでした。
先生から掃除をしろと言われても 「勝手だべー」と言って逃げていくのでした。
・・・
なにをやっても「勝手だべー」というような風潮があったが、無着成恭先生からは本物の勉強をさせてもらった。
それが証拠には今では誰一人「勝手だベー」
という様な人は一人もいません。
私達が中学校で習った事は人間の命というものは素晴らしく大事なことだと学んだ。
素晴らしく大事な命も生きてゆく態度を間違えば、さっぱり値打ちのないものだという事を習った。 これからは自分の脳みそを信じ、自分の脳みそで判断しなければならなくなります。
先生と別れる事はさびしいことですが、しかし私たちは教えられてきた一つの方向に向かってやって行きます」という様な内容。
「勝手だべー」というのは自由のはき違いであり、それを先生が直してゆく。
自由には責任がある。
責任は基本的には人間の命を大事にするという精神から出発しているという事を教えてゆくのが教育だったんだろうと思います。
「真相はこうだ」 ラジオ番組 GHQの民間情報教育局が台本を作った。
日本人自身が自分たちで真相を調べる力が無くGHQに頼った。
日本人が自由を理解してゆくためには過去を全部知らなくてはいけないと言う前提で、過去の隠されていた真実を教えるわけです。(アメリカの手法が感じられる)
ガダルカナル、ミッドウエー沖海戦、南京虐殺、沖縄戦なども伝えられる。(次の放送「真相箱」含め)
その後「質問箱」に代わる。 今の問題のこととかかわる内容になる。