2014年7月1日火曜日

石川文洋(報道写真家)     ・ベトナム戦争取材から50年、我が人生を語る

石川文洋(報道写真家)    ベトナム戦争取材から50年、我が人生を語る
戦場カメラマンの石川さんは、ベトナム戦争に従軍取材をしてから、今年で50年になります。
当時27歳だった石川さんはベトナム戦争の現実、悲惨さを伝えようと、1965年から当時の南ベトナムのサイゴンに滞在し、フリーの立場で取材活動をしました。
「ベトナム最前線カメラルポ」などの写真集は、当時大きな話題を呼びました。
ベトナムから日本に戻った後はベトナム戦争の支援基地となった沖縄の米軍基地や、兵士の姿などを撮影してきました。
ベトナムにはその後も定期的に訪れ、戦争がもたらした後遺症や復興状況などを取材しています。
現在ホーチミン市にあるベトナム戦争を展示する戦争証跡博物館には、石川さんの写真を展示する常設の写真コーナーも設けられ、沢山の見学者が訪れています。

戦争証跡博物館館長 フィン・ゴック・バン(HuynhNgocVan 女性館長(52歳) 日本に来て全国5か所でトークショーを行う。
ベトナムのことを力を込めて話をした。
若い人たちはベトナム戦争について知らない人が多い。
沖縄では若い人が関心を持ってくれる人が多い。
1965年1月からベトナムに住んで直接取材する事になる。
当時外国に行くのは非常に難しい状況だった。(経済的にも)
前年、沖縄に行って、移民船にただで乗せてもらって、香港に行った。(世界旅行をしたかった)
ただで行ける方法はないか、(27ドルしかもっていなかった) 香港でも知り合いは無くて、何とかなるだろうとおもった。
香港で仕事を探して、次の国に行こうと思っていた。

8月に初めてアメリカがベトナムを攻撃する、トンキン湾事件が起きる。
爆撃の1週間後にベトナムに行く。
世界からジャーナリストの記者会見があり、刺激を受けて、10月にもう一回行った。
ベトナムに行こうと決めて、丸4年間滞在した。
最初行った時にはアメリカの戦闘部隊はいなかった。
政府軍とアメリカに対抗する、南ベトナム解放民族戦線が1960年に結成されて、その部隊が強くなってしまった。
是はいけないと言う事で、1965年3月に沖縄から直接戦闘部隊を投入した。
その後も増えて、一時期 55万人がベトナムにいた。
アメリカ軍に同行取材をしていた。

ベトナム戦争はカメラマン、記者が最前線まで行って、長期にわたって取材できた唯一の戦争だった。
1963年にケネディーがカメラマンや記者には協力しろと、指示した。
私は少佐待遇だった。 軍隊では中隊長が大尉だったので、厚遇された。
民主主義を護ることが大切だと言う想い。
但し、戦争なので、アメリカに都合の悪い事も報道されて、アメリカでも反戦運動が起きるが、後になって気が付いた。
ベトナム戦争の特徴は、農村が戦場になった。
ベトナムは国土の80%は農村、アメリカ軍に反対する、南ベトナム解放民族戦線は農村が基本になっている。
ベトコン(ベト 越南 コン 共産のことをコンサン を略す) 農村にいるから、そこを攻撃してやっつけるのが作戦だったが、やればやるほど、農村攻撃になるので、民衆を攻撃する事になり、気持ちがアメリカ軍、政府軍から離れる。
民衆が200万人死んだと言われる。 日本では原爆含めて、民間人は90万人と言われている。 

米軍は協力してくれるし、食事はただで食べさしてくれたが、カメラマンは目の前で起こっている事を手加減しようと言う事は思わなかった。(皆自由に報道した)
ベトナム戦争が終わって、アメリカはそれを教訓として反省した。
ジャーナリストを自由に報道させたたら、いろんなことを報道されてしまう、と言う事を。
最初に政府軍に同行したが、1カ月同行して、政府軍に勝ち目はないと、直ぐに判った。
農村攻撃、民意が離れるので、これでは勝てないと思った。
沖縄戦 地上戦だったので、沖縄もこんなだったのかなあと思いながら、取材をした。(私は生まれが沖縄)
アメリカ軍は非常に苦労していた。
アメリカ軍の中に沖縄出身の兵士がいた。
2世として徴兵された兵士、日本国籍を持っていても、アメリカに半年以上いると、徴兵される。
拒否はできるが、軍に入ると市民権、永住権、アメリカ国籍が得られる。
勤務は1年間なので、そういう人とはあちこちで出会った。

沖縄出身の土池敏夫と言う人と出会う、お父さんはハワイ生まれの2世、沖縄戦の時通訳としてくる。
沖縄で入隊手続きをして、アメリカで訓練を受けて、来ることになる。
彼はアメリカ軍国籍を得るために参加する。
彼は2カ月後に戦死した。(19歳)  彼とは沖縄のことを大分話をした。
その後、ベトナムにいったり、沖縄に行ったりする。 沖縄取材 1969年
まだまだ沖縄から派兵していた。(1969年2月が一番派兵が多かった)
B52が嘉手納基地から出動して行った。 沖縄-ベトナムは直結している。
那覇軍港にはベトナムに送る物資が一杯あった。
負傷者もいっぱいいた。
兵士は2回休暇があり、コザのバー街は本当に凄かった。 お金を使い放題使う。 

ベトナム戦争は1975年7月30日に終わる。
北ベトナムに1972年、73年に行っている。 取材許可が下りたのは私だけだった。
サイゴンに入った時は、時代が変わったなあと思った。
ハノイまでジープで横断した。
戦争が終わって本当によかったと思う。
ベトナムがどうなったかを記録している。 今、行くと吃驚する。
戦争証跡博物館 1日2000人~4000人 昨年は70万人が来たそうです。 
今私の写真は138点が展示されている。

一つの国の変化を写真にして、記録出来て良かったと思う。
カメラマンというのは、こんなことが起こっていますよと言う事を、多くの人に知ってもらい、次の世代にベトナム戦争はこうだったと、いう事を伝えてゆく、そういう役目があると思っている。 
戦争を防ぐためには、戦争の実態を知ることは大切と思っている。
戦争の実態をベトナム戦争では記録出来たと、思っている。
日本の戦争が終了してから70年になるが、戦争の実態を知って、想像力を高めてゆく(悲惨さ等)、日本の戦争はどうだったか、そういったことを知って、勉強し直してほしいと思っている。
戦争は殺し合いです。  歯止めをと言ってるが、戦争になってしまったらどうなってしまうのかわからない。
戦争にならない様な「たが」をしっかり締め直しておかなくてはいけないと、思っている。