2014年7月21日月曜日

千葉作龍(五代目ねぶた名人) ・ねぶたの魔力に魅かれ続けて(1)

千葉作龍(五代目ねぶた名人)  ねぶたの魔力に魅かれ続けて(1)
青森市でねぶたを50年作っている。 千葉さん 65歳
8月に入るとねぶた祭りの夏がやってきます。
青森市、五所川原市、弘前市のねぶた祭りには、大勢の人が集まり故郷に残るお祭りに参加して、真夏の夜を楽しみます。
ねぶたを作るねぶた師は、およそ1年を掛けて作品に取り組みます。
構想から始まって、下絵を書き、針金と木で骨組みを作り、1000個以上の電球を取り付けが終わると、和紙の切り貼り作業、そして真っ白な強大なはりこに色塗りをして、最後は「まなこ」を入れて、気の抜けない日々が7月一杯続きます。

先の事は考えないで、作業する。 先のことを考えると精神的に落ち着かなくなってしまう。
最後は顔を書くが、絶対的に精神を安定させなければ駄目、集中できるために、余裕がないと駄目、あえてそういう環境作りするために音楽を掛けたりする。
描きあがった時の気持ちは、安堵感。 
満足できるかどうかは、明かりが入って路上を練って歩く、其れを見ないと駄目。
8月2日から7日まで行われる。
自分の作品が出てゆくときには、もう自分を離れている。
娘を嫁に出すような心境。

ねぶたの準備は?
ねぶたの終わった直後は、ねぶたのねの字も聞きたくない、のんびりして山へ行ったりして、日常に戻る訓練をする。
若い頃に比べると、早く戻れるようになったが、涼しくなったころから、自分を取り戻す実感がある。
家の中を整理したりして、構想を練り始める。
構想はその時から始まって、次の年の夏に完了するのではなくて、何年も続く事がある。
あと旅をして、知らないところに行くと、新しいものが自分に入ってきて、役に立つ事がある。
狙ってゆく事もある。 そうすると近ずいたような気になる。
11月ごろに纏めて、絵にする。
30年以上前に一回やったことがある物を、自分の中ではまったくあたらしいもの、を今年はやろうとしている。
毎年毎年まっさらな気持ちでやっている。

ずーっとねぶた漬けでいるんですが、感覚は新鮮なものです。
本番に練り歩く時に、全く自分から離れたものに感じる、勝手に魂が入って、独り歩きしている、その時に初めて自分は客観的に見れる。
その時によしあしが、自分の中では判断できる。(作っている時には、判断できない)
ねぶたの出来が良かった時には、作っていてよかったなあと思います。
幸せだなあと思います。 でも本当に幸せは、今、作っている時ではないかと思う。

下絵が出来上がれば、弟子が来てパーツを作る。 手とか、握りこぶしとか 結構時間がかかる。
2月には作り始める。
青森港のところに、一杯大きなテントがある。 テントは高さが20m 両幅が10mずつあり、はりこの大きな作品があり、色を塗り始めた処。
時代と共に様変わりしている。
平成4年に青森港の近くに、集まって作業しているが、以前は1台ずつ、市内に点在、空き地を利用したりしてやっていた。
20歳の時にはじめて大型ねぶたを作ったが、今年で48年目ですね。
父がやはりねぶたを作っていたので、12歳ぐらいから手伝っていた。(50年以上になる)
父は絶対に教えなかった、教えたくないのでなく、教えてもしょうがない、口で言っても駄目、見て覚える。
言葉で教えられるものは、本当に初歩的なものだけ、後は見て覚える、或いは自分の中で組みたてて、成るほどと言う風に納得しないと、できるようにはならない。

父は褒めてくれることは一切なかったが、自分でもそう理解していたので、皆さんそうです。
ねぶたの作り方が文章にならないのは、そのわけです、書きようがない、言葉では表現できない。
父の時代は竹で作っていた。 今は100%針金 昭和42,3年ぐらいまで竹は続いた。
昭和35,6年あたりから竹と針金を併用した。
併用した人が、名人と言われた、初代、第2代名人の北川金三郎さん、北川啓三さんと言う人。
竹は自由自在にはならないが、針金は自由自在に曲げられるので、凄いリアリティーがあり、其れを作りたい、と子供心に思った。
北川さんが作ってるところを、隙間から覗いて、頭に叩きこんで、忘れたり、判らないところを何べんとなくのぞきに行った。
父のまねをするのではなかったので、父としては面白くはなかったようだが、好きにやれと言う様な感じだった。
父は本業があったので、ボランティア、四六時中、やるわけにはいかなかったので、母親は私がやることによって、もってこいだったのかもしれない。

父としては気にいらないが、やる気があるので、父は買ってくれた。
父は看板屋 絵を描きたかったらしいが、私が後を継げば、自分はそのうち絵を描けると思っていたようだ。(話はなかったが、判った)
看板屋を継ぐ事になるが、父は亡くなってしまう。
5,6年は看板屋で職人としてやってきて、その後看板屋として独立するが、ねぶたを作るためだった。(自分の時間がほしかったから)
当時 ねぶたを作る人は7~8人だった。
弟子志願は結構いた、団塊の世代の連中。 私もその一人ですが。
ねぶたを作っていると出会いがあり、ライバル意識もあった。
残る人もあり、辞めていった人もあるが、その差は情熱ですかね。
ねぶたを作ると言う事は、生活できないものなので、本業を持っていなければいけなくて、両立と言うのはなかなか難しい。
看板屋として独立したのは、自分の時間がほしいからです。

ねぶた 文献に出てくるのは200年前。 大正時代の写真では1,2人で担げるようなものだった。
第二次世界大戦の後は、青森は焼け野原になってしまっていた。
昭和21年にはねぶたをやっている。 19年にも実際はやっていた、公式には記録はないが。
ねぶたは食べものと一緒でねぶたがないと生きていけない感じ。
生まれた時からねぶたがあるし、うまく理解できないが、考えてみると不思議ですね。
半年近くは雪の中、其れが夏場に一気に噴き出る、そういう感じがしないわけではない。
だからあの様なエネルギッシュな祭りになったのかなあという思いがある。
ねぶたはあって当たり前。
戦時中は戦意高揚、戦後はGHQきて、戦闘的な場面は駄目と言う事があったようだ。
刀を持ってはいけないとか、でもあっという間に元に戻る。

最初 20歳の時は 船弁慶 平知盛  が好きだった。
製作中は先輩たちが来て、色々言ってきたが、その人たちのおかげで勉強できた。
中には逆なことを言って来て困ったこともある。
でき上った時は、訳もなく涙ぼろぼろだった。 
気付いた時には、意識を越えてしまった状態に自分の居ることがやっと判ったという様な、安堵感というか、涙ボロボロでした。
先輩がたのねぶたと一緒に歩けた、そういうスタートが切れたと言う安堵感だけでした。
最優秀賞、ねぶた賞など頂いたが、スランプが来る。
病気をしてしまった。 ストレスからくる自律神経失調症(当時はそういう名称は無かった)
心臓が数えきれないほど早くなるが、病院に行くと治ってしまう。
いろいろ病院を廻ってある医者から、あなたは性格がこまやかだから、其れを治しなさいと言われる。
それで気は楽になったが、しかし直ぐには治らず、7年ぐらいは苦しんだ。
死の恐怖と闘いながら、ねぶたを作らなければいけないので、当然好いものはできるわけがなかった。
精神的なものであろうと、わらをも掴む思いで、祈祷師のところに行ったが、ろうそくの炎が変な燃え方をしたり何か異常なんです、祈祷師から言われた。
あなたは馬を粗末にした事はありませんでしたか、と言われた。 
実は、馬のねぶたを作って寸法が合わないので、馬の足を切り取って、その日に放っておいてごみにした事があった。
馬が苦しんでいる姿が見えると言われた。
逆にその世界にのめり込んだ。
密教の世界を勉強して、空海と出会う事になる。 
空海、真言宗のことを勉強して、いろんなことがわかってきて、学んだところが全てねぶたの題材だった。