2014年7月13日日曜日

片岡義男(作家)         ・作家として40年新作に挑む

片岡義男(作家)      作家として40年新作に挑む
昭和15年東京の生まれ 山口県、広島県、父親が日系2世だった関係で、一時期ハワイで教育を受けた経験があります。
片岡さんは大学在学中から翻訳や、ライターの仕事を始め、「僕はプレスリーが好き」で評論家としてビューしました。小説家としても1974年に「白い波の荒野へ」でデビュー、翌年、「スローなブギにしてくれ」で野生時代新人文学賞を受賞、その後も幅広い分野で活躍してきました。
最近は、「日本語の外へ」などの日本文化論等、日本語についての著作でも注目されています。
小説家としてデビュー40周年の今年は写真集に続いて、東京を舞台に、・・・(地震情報有)

大学は早稲田、法学部 1970年代にいろんな雑誌に文章を書いている。
書き始めたのは1960年ぐらい、大学生のころから書き始める。
昔、翻訳の仕事をやった。 おじいさんがハワイに移民した。 お爺さんは日本に帰ってきた。
父親は日系2世、英語しか喋らなかった。 母親は日本人 近江八幡出身 
父は、戦争が始まって、帰る船に乗りそこなって、お見合いを勧める人がいて結婚した。
お爺さんは山口県の出身で、ハワイから帰ってきて家を立ててのんびりしていた。
私は、戦争で山口県に疎開したので、お爺さんの影響が非常に大きい。 
お爺さんは、何でも自分でやる人だった。
アクションの仕方を幼いころから影響を受けた。
父はGHQの通訳を中心に、仕事をしていた。
母は日本語、お爺さんは日本語とハワイ系の英語 父はカルフォルニア風の英語だった。

少年時代はあまり本は読まなかった。
母親からは本を読むように言われていた。
母親は関西だが、関西弁の影響は受けてなかった。
大学生の頃から文章は書く様になった。(20歳)
最初は翻訳 英語の勉強はあまりしていなかった。 娯楽小説だったので。
就職は、求人表があり、大ぜいが見ていたが、秋になると少なくなってきた、秋になっても私は決まっていなかったので、友人と共に商事会社に面接に行った。
卒業式を境に、世の中に放り出される。 黄金時代がある日突然終わる。
仮採用 3カ月あるが、このままいると迷惑をかけるだけだと、3か月で認識した。
辞めて、時間が自由に使えるので、多少真面目に書く様になる。
コラム、エッセー 等を書いた。
植草甚一 平凡パンチを書いていたころ、よくコメントをもらった

1974年 小説を出す。 34歳  「白い波の荒野へ」
文芸雑誌を創刊するから書けと言われた。 ここで書かなかったらお前は駄目になると言われた。
物語を作らなければいけないので、人物を作らなければいけないし、人物がどうすれば物語になるかを、自分なりに発見していかなければならない。
人と人の関係がどのように変化してゆくか、その変化の仕方が、物語になってゆく。
最新の小説集 東京を舞台にした小説。  十条、谷中、経堂、三軒茶屋等が 舞台になっている。
場所の取材はやっている。
30歳代の登場人物がおおい。 
ファッションの記述とか、おしゃれ。 向き合っている関係がでる、だから書くわけです。

音楽も喫茶店などで出てくるが、特に私の趣味ではない。 
料理、飲み物、も特に私の好みではない、人物には論理があるので、論理の中で何を飲むか選択する。
カレー、香辛料とかの記述もある。
外に在るものが私にちょっと近ずいた時に、気が付くか、気がつかないかだと思います。
40周年 写真集発売、対談集も間もなく出版、翻訳家の鴻巣友季子さんと翻訳問答。
翻訳論議、日本語って、同じ英語の文章を読んでも、翻訳家の方によって選ぶ言葉とか表現が、簡単なようで違う言葉を使っている。
小説家片岡さんの魅力はアメリカ文化、英語の文化を持ち、独特の視点で現代日本の人間模様を捉えているところだとおもいますと、書かれているが?
そういう捉え方もあるかもしれない。
5歳ぐらいの自分と同じだと思う事もあるし、10歳、30歳の自分と変わらないと思う。
写真、小説 翻訳 どこかでつながっていると思う。