村岡恵理(作家) 祖母 村岡花子が伝えたかったこと
花子のアンの原案となった、「アンのゆりかご」の作品の作者 昭和42年東京生まれ。
大学を卒業した後、ライターとして活躍しますが、平成3年年から翻訳家の姉と共に、祖母、村岡花子の著作物の研究や保存に取り組みます。
赤毛のアンの著者、モンゴメリの子孫やカナダとの交流に力を入れ、アン誕生 100周年、村岡花子没後40年の平成20年に村岡花子の生涯をたどったアンのゆりかごを書きあげました。
絵里さんは祖母の足跡をたどるなかで、歴史のうねりの中に巻き込まれながらも、新しい時代を開拓してきた女性の生き方に、多くのことを学び、文学や読書が人生をどれだけ豊かにし、力となってくれるかを再認識したと言います。
「アンのゆりかご」 2008年に書きました。
展覧会に合わせて、この本を出そうと、あわただしくして、やることはやったと思っていたが、思いがけなく朝ドラが決まった。
赤毛のアンの原作者モンゴメリーの生誕140年、記念すべき年だった。
カナダとの友好関係を結んだ85周年 記念すべき年。
展覧会をやりましょうと、ちょうど上がっていた。
村岡花子の原稿、原書を貸し出して、モンゴメリさんの遺族も協力して、カナダとと日本の友情のシンボルとして、赤毛のアンがどうやって、日本で出版されたかと言う事を含めて、展覧会をやりましょうとの企画が進んでいた。
思いがけなく「アンのゆりかご」が原案として、朝ドラが決まって、企画会社などは大喜びしています。
女性の生き方として、明治時代、学問を勉強して、英語を先駆者として学ぶ。
本だけは沢山ある家だった。
石井桃子、渡辺茂男、乾富子絵本だとか子供の読み物と一緒に祖母の作品があった。
亡くなる2日前の随筆に、私のことも書いてある。
祖母が私の子守りを頼まれて、祖母が途方にくれるぐらい、泣き叫んだようだ。
大学を卒業後、ものを書く仕事を始める。 姉は翻訳の仕事。
村岡花子記念館 祖母が女学校時代からノートとか、歌を読んだもの、英文学の本とかが全部残っていた。
祖母の書斎がそっくり残っていて、資料が残っていた。
母の方が、公開してもいいと言う事になり、始まった。
タイトルが問題になり、編集者と話し合い、「窓辺による少女」に決定していたが、出版社の社長から連絡があり、「赤毛のアン」でどうかとの問いあわせがあり、祖母は気にいらなかった。
家族で話し合って、子供の意見では、「赤毛のアン」の方がいいと言う事だった。
ギリギリセーフで「赤毛のアン」に決まった。
戦争中に、敵国の翻訳をしていたことは聞いてはいたが、細かな足跡でどういう風に仕事をしていたのか、どういう風に生きていたのか、そこまで振り返ることはしていなかった。
記念館をきっかけに、母と整理をしながら、母は記憶のファイルを開いていく様に話始めて、いろんなことのきっかけでした。
3年後に母が突然亡くなる。
母は、祖母と私の結び目でもあったので、非常に悲しかった。
私がいつかおばあちゃんの物を書こうと宣言した。(26歳) それから14年後になるが。
先ずは本の整理、手紙類、資料の整理。
祖母、母が生きていた時代の事は何にも知らないと言う事に愕然とした。
先ずはそこから知ること、時代背景、生活感情、教育、考えている事等を知らないと書けないと思った。
一番驚いたのは、読む本がなかった。 教育の機会が均等では無かった。
今当たり前だと思っている環境、制度がなかった。
花子の父親はいろんなことに興味があって、キリスト教にも入っていた。
父は行商 母は農業の設定だが、父(静岡の茶商人)も母も商人だった。
父親は商人だけれど商売は苦手だった。 新しい思想、キリスト教、だとか本が好きだった。
宣教師都の流れで、実家を捨てて静岡から甲府にうつって、結婚して生まれたのが花子。
花子は2歳の時に幼児洗礼を受けている。 カナダの教会の流れだった。
赤毛のアンと出会う運命みたいなものが動き始めた様に思う。
甲府教会で幼児洗礼を受けるが、そこの教会の牧師さんが東洋英和女学校の創設者だったりして、その縁があって、10歳で東洋英和女学校のカナダ系ミッションスクールに特別に入れてもらえると言う事になる。
そこで様々な出会いがあり、才能が開花する。
出会いに恵まれた人だと思う。
実際は花子が5歳の時に一家で、東京に来ていた。
クリスチャンのヒューマニズムと言うものを叩きこまれて、日本文学を勉強したいと思っていたときに、白蓮さんとであって、歌、日本文学を勉強していて、佐佐木信綱先生、歌の先生にもついていた。
白蓮さんの導きもあって、佐々木先生の門下生になる。
歌を一生懸命に勉強した。 一時期は歌人になろうと思った。
英語力と同じように、歌を読むことで、研さんされた日本語の感覚と言うものを磨いた。
翻訳家の道の上では、非常に大切な文学的素養だと思う。
佐々木門下で培われた、日本語を選ぶ感覚は、すごく大事だったと思う。
今、英語は大事だと言う様な傾向はあるが、日本語の豊富さをもう一度見直されるべきだなあと思うし、英語ができる人は増えているが、何が明治の人と違うかと言うと、漢文の素養、短歌、俳句 日本語の豊かさを勉強している。
子供時代に沢山の本を読んで、想像力を養って、主人公がどんな境遇でも一生懸命頑張っていれば、誰かが見ていて、必ず報われる、一筋の光明が見える、と言う様な物語が多いが、祖母自身がそういったものをたくさん読んで、そういうものから生きる力、精神を得たんだと思う。
生きる力を与えてくれるような本を若い人たちにも、届けたいという想いが、実体験からより強くなったんだと、思います。
40歳で書いて、これからどう生きるか、と言う事を考える上で、歴史を知ることは大事な時期だったと思う。