東山香子(金属加工会社・社長) 町工場 女性の技術で輝きます。(1)
これまで男の職場だった町工場にも、女性が進出し始めています。
物作りの街として知られる、大阪、東大阪市、ここに在る東山さんの金属加工の町工場で働くのは、30代から40代の子育て世代の女性4人です。
6500以上ある町工場がある東大阪市でも、まだ珍しい存在です。
東山さんは41歳、美術専門学校をでて、信楽焼の窯元などに務めた後、大阪の加工機メーカーで働き、その後独立して町工場の経営を始めました。
子供を持つ女性が働きやすい様に、工夫された東山さんの町工場、どのように仕事が進められているのか、経営者の考えは、伺いました。
50平方mに工場は所狭しと、機械や工具が並んでいます。
ここで行われているのは、金属への穴あけの作業です。
穴あけの機械が4台あります。
直径が0.25mmの電極を取り付けていて、電極を回転させて、金属を溶かして金属に穴を開けます。
用途は、機械部品、半導体の部品、金型、吸着ノズルなどの穴あけをしている。
放電加工の一つの方法 切削で穴あけが一般的ですが、方法が違って電気で溶かす事が特徴です。
細穴放電加工をうちの会社は請け負っている。
8年経って、延べ700社の取引があります。 まだまだ不安定です。
2006年に会社を設立。 生まれは愛知県 その後奈良で過ごして、操業するときに金属製造業の数を調べて、一番多いところの東大阪市にしました。
父は金属加工業を継いで、2代目の社長をやっています。 鉄工所と言った感じです。
母親は4人の子供を育て上げました。
手に職をつけたら、と言う様な事を小さいころから言われていた。
起業するという発想はまったくなかった。
大学に一旦はいるが、中退する。
高校の時に海外青年協力隊の事を知って、それに参加したいという夢があり、大学に行って教員免許を取って、教育者に行こうと思っていたが、面白くないと感じて3カ月で辞める。
夢は捨てきれずに、海外青年協力隊員の受験資格を取ろうと、色々探しながら、2年間陶芸を学校で勉強して、その後信楽焼の勉強をして、3年間の実績があれば資格対象になるので、やろうと思った。(製造業3年間勤務以上)
3年間は楽しく過ごすことができた。
受験しようと思って、受験内容を調べたら、陶芸を武器にしようと思ったが、土の事からできないというレベルで、自分のレベルではとても無理だと判った。
30歳までに行こうと思って、色々なことをやった。
29歳の時にマレーシアの障害者の施設で美術講師の枠があって、陶芸ができるとなおよいという条件が付いていたのでぴったりと思って、受験して受かった。
語学の訓練、健康診断があり、そこで病気(癌細胞になるかもしれない細胞が見つかる)が発覚して、派遣中止になった。
ショックで落ち込んでしまった。(それまでは挫折の経験はなかった)
人の役に立つようなことがしたいと思っていたので、それができなければ日本でやればいいのかなあと思った。
NGOで働いて、似たようなことがしたいと思ったが、なかなかうまい就職口が見つからない。
40歳までのもう一度受験しようと思って、2年掛かりで病気のほうを治して行こうと思っていたら、一時実家に戻って、アルバイトで放電加工の仕事をした。
経営者から、女の人だけで放電加工の仕事をやってみたらどう、と言う話が出てきた。
日本で起業したら、全部できるよと云われて、雇用も増やせるし、女性の雇用、社会問題も解決したらと言われて、起業する事が世の中の役に立つ、という発想がなかったので、衝撃が走った。
穴あけは、二次元で場所を決めて、下に下げてゆくだけなので、簡単。
私が仕事を喜ぶものだから、経営者のその話になったと思う。
続く会社をつくれば、世の中に貢献し続けることができると思って、又社長して見ないかと言うチャンスは恐らくないと思って、協力隊は諦め切れないところもあって、在職しながらも行けると言う事もあり、それもあきらめきれずに、3人で起業しました。
資本金600万円 用意して、機械を買って、始めました。
運営の仕方も判らないので、毎日仕事がないね、と言う日が続いた。
チラシ配り、一軒一軒お客さんになりそうなところに伺った。
1日3軒ぐらい、営業をしたことがなかったので、心が折れる。
見積もりをどうしたらいいかと、いう様な所から始まった。
最初は成功報酬 やってみないと判らない様な状況だった。
口コミが一番強いなと実感している。
良い仕事をすると、それをお客さんが勝手に、あそこはちゃんと穴をあけてくれるよと、知ってもらうのが一番大きい。
ホームページを最初に作ったので、インターネットさまさまと言うところもある。
7年ぶりに仕事を頂いたお客さんもいる。
納期は約束事なのだが、トラブルはあるので、お客さんと調整して、最悪この期間とか、話をして、無茶な納期では受けない。
万一遅れるようであれば、あるとき事前に連絡する。
会社を始めるときに3年間は赤字でもやろうと思った。
でも着実にお客さんも増えるし、できることもドンドン増えていった。
地道にやっていけば、お客さんは増えるように思えて、3年目は凄く忙しくなって、4年目にリーマンショックにあって、吃驚するほど少なくなって、えーっと思って、どうしようという感じだった。
これを乗り越えたら100年は大丈夫だといわれた。
大赤字を残して、いまだにリーマンショックの深手は癒えていない。
横のつながりも出来てきたので、より小さな或いはより大きな穴あけのお客さんの要望をなんとか応えるようにしている。
口こみであって、インターネットがあって、そして人間が介在して新しい仕事のあり方。