2014年6月7日土曜日

大南信也(NPOグリーンバレー理事長)  ・日本の田舎をステキに変える

大南信也(NPOグリーンバレー理事長)   日本の田舎をステキに変える 
61歳 徳島県 神山町 昭和30年頃 人口2万1000人が現在 6000人  林業の衰退などで減り続けている。
10年前町の有志とNPO法人を設立 「日本の田舎をステキに変える」を合言葉に町おこしに取り組んでいます。
日本と世界の芸術家を招いて、町に滞在しながら作品を作ってもらおうと言う、アーティスト イン レジデンスは全国的にも知られるようになり、移住者を増やす取り組みや、企業誘致でも成果を上げています。
人口の減少も緩やかになり、2011年には半世紀ぶりに、転入者の数が転出者の数を上回り、全国で町おこしをを取り組む人達から注目されています。
昨年度の安陪内閣故郷作り有識者会議のメンバーでもありました。
創造的過疎とはどういう取り組みなのか、お聞きしました。

いま、10社 IT関係が多いが、NPOサポートの会社もあります。
大方の方がパソコンで仕事をしている。
光ファイバー網が徳島県では進んでいて、インターネット網が出来ていて、都市部と関係なく仕事ができる。
大容量でも高速で送れることができる。
ここでのメリットは?  
仕事と遊びを分けずに自然の状態で、生きる様に働くと言うか、其様な生活が可能、通勤地獄がない、休みたいと思って、外に出ると自然がある。

日大の理工学部を卒業後、アメリカのスタンフォード大学の大学院に進む。
卒業後地元に戻ってきて、家業を継ぐ。(建設業)
道路工事を行って、道路が開通して、山の集落がきらきら輝いて大喜びするが、時間が経過するうちに、段々と集落から引っ越しが始まり、老夫婦、独居老人しか残ってないと言う様な状態になる。
過疎対策で道路を作っているのに、結果的にその道路が過疎を助長する。
公共工事に頼らないような町のあり方を、探る必要があると思い、少しずつ街作りに傾斜して行った。

1927年にアメリカから友好親善の人形 青い目の人形が母校に残っていたが、パスポートを持っていて、出身地が書かれていたので、この人形を送ってくれた人が解るのではないかと調べたら判って、人形をアメリカに里帰りさせたいと、運動を起こして、1991年8月に30名の訪問団を結成してアメリカに渡した。
共有体験をしたこと、それが核になっている。
1997年 徳島県が国際文化村を神山町に作ると言うプロジェクトをうちあげた。
こちらから県、町に提案しようという動きを始めて、そのあたりから変化が始まった。
1985年ぐらいから、アメリカでは高速道路を区間ごとにスポンサーをあてはめて、その人たちが行政に代わって掃除をする仕組みが出来上がっていた。
日本でも必要になるだろうと思って、いつかやろうと思っていたので、之をスタートさせた。
企業の社会的評価、モチベーションを高める。

国際芸術家村を作ろうと始める。 
アーティスト イン レジデンス  海外から芸術家を招待して、その人たちに作品を作ってもらって、その製作のサポートを住民が行う。(1999年)
今まで合計で50名は越えてる。 毎年100名の応募がある、海外が多い。
住民と触れ合いながら、作品を作り上げてゆくので、今まで体験しなかったような体験ができる。
町民と同じ生活をするので、一緒に料理を作ったり、人手が必要になった時に住民が手伝いをする。
町内を遍路道があり、昔から接待の文化があり、お遍路さんに向けていたが、アーティストに向けて柔らかく、くるんでしまう様な感じです。
事業費用、一人当たり70万円 3名くるので210万円プラス諸経費で、全体で350万円。
140万円は神山町役場から、不足分はグリーンバレーが行う。
ITベンチャー企業にも同じサービスを振り向けて、結果的にこれがうまく機能した。
1993年ぐらいから、英語の先生が配属されてきて、新任研修を神山でやっていて、3泊4日で町民のお宅に民泊してもらうので、神山温泉に町民の人が入りに行くと、50人ぐらいの外国人が一緒に入っていると言う事が毎年出現している。
それが普通の情景に段々なってゆく。

毎年100人中3人が選ばれるが、選ばれなかった人でも補助がなくても来たいと言う人たちがいるので、需要として、製作の場所、宿泊の場所を有料で準備して、いつでも来られるような場所を作っていこうとしている。 「アーティスト イン 神山」
アーティストは日本に来たいが、どこで、滞在、製作できるかなどの情報が、外国に発信できていない。
もっと日本全体に来ると思う。
2004年 NPOグリーンバレー 「創造的過疎」を目指す。
数だけではなく、内容的なことに注目する必要がある。
人口構成、或いは多様な働き方を生みだすことで、過疎の問題はある適度克服できるのではないかと思う。

町から移住交流支援センターの仕事を受託されている。
2010年に神山町 小学校1学年で28.9人 このまま何もしなければ2035年には12.5人になると推定、其れを20人いるというモデルを作って、何世帯きてくれればいいかを、考えた。
5世帯20名 うち子供10名が入ってきてくれれば達成できる、其れを目標にする。
フレンチの店をオープンしたりして、夜行く場所がないと言う様な事に対応する。
店の種類を事前に絞り込むことによって、結果的に町をデザインできる。
5年間で70世帯 125人が神山町に転入、2011年転入者が転出者を12人上回った。(画期的な事)
2012年、2013年は少し減少したが、何もしなかった当時に比べて緩和している。

神山は山間部にあるのにもかかわらず、自由にさせてもらうと言う気がする。
外国人からも、なんでこんなに心を開いてくれるのかと、言われる。
神山塾 人材育成事業 厚生労働省の関連の民間の職業訓練機関 6か月間掛けて養成しようとする事業。
5期が終了して、6期生は14名 66名はここを巣立っていったが、そのうちで4割がそのまま移住者として残る。
6組のカップルも誕生した。
よそからやってきた30歳前後の、クリエーティブな子たちがいろんな新しいことを始めて、町に変化を起こしている。

町民が自信を持ち始めた。
やりようによってはどうにかなるものだと、見つけられた人が結構いると思う。
それぞれの自分の力をつかいながら自分たち出来る事を、神山の至るとこで始めているので、町全体が熱を持ってきている状態だと思います。
「兎に角 始めましょう」 やらずに心配している人が多いが、先ずはやることによって、周囲の情景を変えて、そこで何をやって行ったらいいのかを見つけ出す。
壁にはぶつかるが。
最初から反対する人がいると言う事は、当たり前と考えていれば、めげることはない。
アイディア よそから持ってきてくれる。 自分たちのプログラムと合わせれば、新しいことが生まれるかもしれないと、読み変えながら、考える。

これからスーパーハイビジョンの時代  映像のアーカイブ事業が神山に アーカイブする場所ができる。
最先端の場所になりつつある。
カフェ、パブは人間の情報が得られるので、人の出会いが生まれて、新しいものが生まれやすくなる。
そこにどんな人がいるか、によって価値が決まってくるような気がします。
変化を生む町にしたい。