堀田健一(オーダ自転車製造業) 生き方を変えられる自転車作り35年
堀田さん69歳は東京足立区の小さな工場で、体の不自由な人のための自転車を作って35年になります。
一般的な自転車に乗れない、手や足が不自由な人達から注文を受けて、一台ずつ手作りする堀田さんは全国で只一人の製造者です。
これまでに完成させた自転車は,障害に合わせて手でペダルを押す手動式のもの、足で方向操作ができるものなど、その人だけの乗り物、形も二輪、三輪、四輪、と色々です。
利用する人達も全国に広がって,3歳の幼児から90歳まで年齢も性別も様々ですが、堀田さんの自転車で利用者は,行動範囲が広がるだけでなく、日々の暮らしも変化してきています。
一人でも多くの手や足が不自由な人に、生活を楽しんでほしいとオリジナル自転車で、日々研鑚を重ねる堀田さんに、自転車作りへの想いを伺います。
50歳ぐらいの人からの注文で、家の周りだけに限らず、電車で遠くまで用事をしたいと言う人、買い物もしたいと、モーターも使うので坂道も登れる、行動力のある自転車。
35年間で造った数は2400台になる。 2000人の人に利用してもらっている。
一人で数台を利用している方もいる。
障害がある方々の乗り物なので、どこがどういう風にしなければいけないか、その時まで判らない、合わせて作ってゆく。
ペダルがいろんな役割をする。 両手がなくても使う事が出来る。
モーターを付けたり、エンジンを付けたりするので、警察との問題もある。
生まれは茨城県霞ケ浦の淵 高校の頃は水上自転車等を作って楽しんでいた。
本田技研に入った。 組み立て、溶接、旋盤だとかやらされたが、私の好きな水上オートバイを提案したが、そこまでは本多技研はやらなかった。
20年たってから水上オートバイを他の会社が作った。
3年で会社を辞めてから、別の会社(梱包関係)で10年近くやった。
その時に自転車作りの縁ができる。
学校では自転車には乗ってはいけないという事で、子供にせがまれて、3輪自転車なら子供も乗ってもいいとの事で、作った。(子供は小学校3年の時)
上下に踏み込むだけで、走る自転車だった。
障害のあるご婦人がその3輪車をみて、乗らせてくださいと言われて、乗って頂いて、すごい喜んでくれて私も吃驚した。
会社の隣りが鉄工所で溶接機などを貸してくれたので、作ることができた。
口コミで自転車を造ってほしいとの、要望が増えてきた。
自転車メーカーに作ってもらえるように連絡したが、作ってくれるという会社は無かった。
私が作るしかないと思った。(お客さまの熱意で)
最初駐車場でやっていたが、雨が降ったりすると駄目で、ある人が足立区にある工場を使わないかと言う人がいて、足立区に引っ越すことになる。
毎日毎日戦いでした。 望んでたものを完成させると、最後にはお客さんが喜んでくださる。
必ず喜んでもらえるまで、それは執念でした。
市販の部品も使うが、フレーム、機構、ギア等は全部自分で考えて、全部手作りです。
最初は順調な時もあったが、停まってしまう時もあり、障害の施設に行って、試乗車を持っていって、乗ってもらって、何とか注文を取って、生活を何とかした。
福祉関係の展示会があり、見本を持って各地を廻った。
コミュニケーションが一番大事だと言う事が解った。
その方の今の現状に合わせて、自転車を合わせて作ると言う事は、リハビリをやっていくうちに、足に力も出てきたり、動く範囲が上がって来たりするので、後の事も考えてやる事が大事。
最初は言われるままにやっていた。
勝手にこちらでやってはいけないので、コミュニケーションを取ることによって、機能のレベルをある程度上げた様に、作ることにするようになる。(色々体験させてもらった。)
辛いのは、身体の具合が悪くなって、それに乗れなくなってしまうような時です。
商売と割り切っていたら、これまでの続けて来られなかったと思う。
堀田健一支援コンサートを文京区で、応援してあげようとやっていただいて、売上金を寄付してくださった。(20年前から実施、8回になる)
1台 15~6万円、モーター付けると30万円台。
最初7~8万円ぐらいだったが、それでは生活が成り立たない。
7~10日で1台 それでは生活ができないので夜中までやる。
昼間はアフターケアーとか試乗用を持って行ったりしているので。
従業員を雇えない状況です。
250ccのオートバイを妻が乗れるので、部品の調達、生活上の買い物等、妻もフル回転で、カタログの発送、お金の計算やら二人で精一杯頑張ってきたので、続けられたと言うのは事実ですね。
学校の給食費が遅れてしまうような場合があり、先生からいつになったら、払えるのかと言う様な事を子供に話すので、子供には辛い思いをさせた。
親に聞くのを忘れた、と言って誤魔化したこともあるようだ。(後に子供から聞いた)
始めて25年経った時に、「シチズンオブ ザ イヤー」 社会で貢献し、感動を与えた無名の良き市民に授与される賞を受けることになる。
突然電話がかかってきて、吃驚した、賞金が100万円 副賞ペアの時計。
嘘だろうと思って相手にしなかったが、又電話がかかってきたが、こちらから電話しますと、聞いて切った。
104で調べて電話したら、その人が出てきて、私はバツが悪かった。
騙されていると思ったが、表彰式の時に、時計が動いて、社長さんにもあって、之は本当だったと思えた。
そこから社会が変わったと思う、そういう自転車は大事なものなのかと、その方にとっては役に立つんじゃないかと、見て頂けたと思います。
3歳の生まれつき小児まひのお子さん、自転車が届いた瞬間に乗り出して、おばあさんは大喜び、母親も吃驚していた。
自転車を作らなかったら、車椅子になっていたと思う。
足が使えるのに足を使わない車椅子になってしまう事は、是は考えなくてはいけない問題だと思う。
足が使えるのなら、手が使えるのなら、そういう身体を使って生活してゆく事がどれほど大事か、
是はお金の問題ではなくて、身体が力が付いてくるので、力が付いた身体で生活をして行くのと、力があるのにそれを使わないで生活してゆくのでは、先々ドンドン変わってゆくと思います。
その人にとって役にたっていることは確かだと思う。
3歳の子は、高校、大学そして社会人になっても、愛用してくださっている。
物を造るのは苦労とは思わなかったが、其れに没頭させてもらえなかったこともある。
是は考えなくてはいけない苦労でした。
足の力が弱いので、坂道を買い物に行けないので、坂道を登るモーターを付けるのは当然の考え方ですが、モーターを付けると、原付だという規制が警察の方から、かけられる。
矛盾しているのではないかと、思う。
健常者 アシストモーターがついても、規制がないが、障害のある人がモーターを付けると、だめと。
大企業からは、借金して作ったカタログが、名前が似ていると言う事で、カタログを使うなと言う事で3万部ほど作ったものを、雨ざらしにした姿を見て辛かった。
東京の坂道は100~150w程度で登れる。
1馬力が750w 小さなモーターでも確認書を取らされる。
市長とか折衝して、両手のない方の原付バイク 1人だけ試験場でやって、通りましたが。
自転車を作る事以外の事、がいろいろ付いて回って是は厳しかった。
どなたも生活に必要で来れるので、断ることは無かった。
辞めようと言う気持ちは無いが、これでは食えないねと言う事は切実なことでした。
妻が昨年の10月に脳内出血で倒れたが、命は助かって、障害もなかった、ただ言葉が駄目で電話、お客様の対応はむずかしくなってしまった。
若いころ靴磨きをしていた足の悪い人が、私の自転車を乗ってから、後に詩を書いていて、
「わが身をば、守りて走るこの愛車 長く保てと 祈りまいらん」 自転車のかけがえの無さを歌ってくれて、私の励みでもありました。
最初は当人だけが喜ぶが、やがては家族の方々の笑顔が変わってくると言う事もあるし、家族のお付き合いなんですね。
私は楽しい人生を歩まさせていただいている。
こういう道をなんとか、消さないで行けないものかなあと、今は考えているのですが。
この道を応援したいという、若い人が出てきてくれた。
どうなるかわからないが、できる限り後進の人に協力していきたいと思う。
同じものを一つずつでは、絶対に利益は出ないが、何台ずつならば成りたつか、資本と見比べながら作ってゆくならば、成りたつと思う。
私の様に開発ばっかりしていたのでは駄目で、今後はある程度のものに絞って、量産してゆく事を前提すれば、商売として成り立って、もっともっといいものが届けてゆけるという、好い循環が出来てゆくのではないかと思う。