保坂正康(作家・評論家) 昭和史を味わう 第3回 昭和初年代の人々の生活(1)
農村編 昭和4年~8年 農業人口は7~8割だった。
昭和3年即位式 11月10日 実況放送 京都御所即位式典
昭和 君民一致世界平和 現実には農村は厳しい。
昭和4年農政学者が農村調査をやった。
東京、大阪などの大都市周辺の農村は、急激に都市化しているが、都市から離れれば離れるほど、江戸時代と変わらぬような習慣、生活システムを持っている。
江戸時代の農村では、そこで生まれたら死ぬまでの完結する人生の空間があった。
多くの日本の都市から離れた農村では、このような状態で有った。
①自然条件(豊作、凶作)の波をかぶる。
②資本主義の市場の中での、農業という形が増える。(景気に左右される)
ダブルパンチで農村を襲った。
銀行がつぶれて、預金が無くなってしまう。
凶作で食べるものがないので、障子ののりをお粥にして食べる、野草を炒めて食べるとか、悲惨な状況になる。
農民は真面目で税金を一生懸命払う様にする。(炭焼きとかお金を溜めて税金を払う)
統計上はちゃんと生活できているじゃないか、と錯覚する様な農林省の役人もいた。
どんな苦境にあっても、税金を払い、自分は食べないで子供に食べさせる。
浜口首相がラジオで緊縮財政を訴えている。(昭和4年8月28日)
世情が不安定になってゆく中で、テロリズムに逢う。 (昭和5年)
浜口首相は傷がもとで、昭和6年に亡くなる。
日本人のものの考えのゆがみがある様な気がする。
昭和4年10月24日、ニューヨークの株式市場で大崩落、世界恐慌になる。
どうやって乗り越えるかと言う事がその後の歴史の形になる。
アメリカは公共投資で失業者を吸収する。
日本、ドイツは軍事が主導になって、その強さで市場を拡大して行こうと、拙速的な解決法を求めた。
目の前の現実をよくしようと、目の前ばかりを見ていたことになることが、昭和史の教訓。
繊維が巻き込まれる。 一気に農村の生産農家に響いてくる。(長野が特に)
会社が雇用を保証できなくなり、辞めてもらう。(農村出身者)
汽車賃がないので歩いて帰る。
農村自体も不況なので、二重、三重の悲劇が起きる(一家心中とか)
娘を身売りする、学校では欠食児童が体育の授業で生徒が倒れる、そういったことが全国的に広がる。
欠食児童 山形県では4万人に及んだ。
大根をそのままかじっている写真、身売りの相談所の写真。
ある村の女性15歳~24」歳 467人がいて、250人が東京、東京周辺の芸鼓さんに売られている。
(東北のある地方の村)
昭和の苦しさに思いをはせることは大事ことだと思います。
ぐらぐらする時にどういう解決法があるのかと言う時の選択肢、 日本は軍儒主導型の形で解決していこうとしたのが、昭和初期の姿だと思います。
昭和4年5月 小林多喜二の「蟹工船」 プロレタリア運動
昭和6年9月18日 満州事変勃発。
漫画ノラクロがはやる
昭和7年5月15日 5・15事件
昭和7年ロサンゼルス オリンピック
昭和8年9月21日 宮澤賢治が亡くなる。
昭和8年12月23日 皇太子誕生
昭和5年 「すみれの花咲くころ」 昭和6年「女給の歌」 昭和8年「東京音頭」