名城政次郎(沖縄尚学・校長) 高校経営の危機を救った男(1)
83歳 甲子園の選抜春の高校野球大会で、2度全国優勝した、私立沖縄尚学高校の校長、名城さんは昭和26年 19歳の時に、父と一緒に英語塾を立ち上げ、昭和40年、35歳の時には英語塾を大学受験にも目を向けた予備校へと変え、温かみ、厳しさ、知性の感じられる人間作り、を目指した指導を取り入れた結果、1980年には5000人規模の予備校に成長しました。
昭和47年本土復帰を果たした沖縄は、公立高校の充実で沖縄尚学高校の前身で、昭和31年創立の沖縄高校も経営難に陥りました。
そこで名城さんの予備校経営の手腕を認め、再建を依頼しました。
職員関係者が猛反対する中で、昭和58年4月名前を変えて、再出発しました。
いかにして沖縄の教育をレベルアップしてきたのかなどを伺います。
終戦の時は台湾にいたので、沖縄激戦は経験していない。
沖縄に戻ったのは、昭和25年、愛知県から沖縄に戻るため闇船で長崎から2泊3日船で糸満についた。
伯父のところに行って、伯父の働いている琉球生命保険の会社社長が、後日 沖縄尚学高校の前身校である沖縄校を創設した方だった。(その後沖縄高校の経営が悪化。引き継ぐ)
沖縄に帰ってきたら、父は身体が弱く、帰らないでくれと言われて、戻る事になる。
(終戦後、昭和21年11月に父は先に愛知県から先に沖縄に還っていた)
琉球政府立の英語学校に受験して、半年の学校、そこに3月に入って、昭和26年9月28日に卒業して、10月1日に那覇尚学塾を始めた。 (19歳の時に)
生活と、沖縄県のステータスを高めようと、と言うのは正しい英語を使わないとアメリカから馬鹿にされるので、校舎を夜借りて始める。
昼は琉球米国民政府に勤務していた。 法務部に入った。
沖縄で犯罪を起こした人、密貿易とか、犯罪の裁判をする。
沖縄の人を救おうとして、頑張った。 毎日英語と葛藤する。
沖縄で殺人事件があり、おばあさんが殺された。
そして検事調書を作成する事になり。 2人で担当して署名する、そんなことを21歳ぐらいでやったりした。
度々遅刻するので、今度遅刻したら辞めさせると言われて、私も忙しかったので、辞めたいといったら、人事係のところに連れて行かれて、あんたやめないでくださいと言われて、、給料も上がったし、地位も上がった。
アメリカ人の考えと日本人の考え方が違うなと思ったのは、何回かありますね。
通訳を間違って仕舞ったこともある。 保釈金無しで釈放と、拘留を間違えた。
沖縄は学力最低県と言われていた。
国立の医学部には国医制度、沖縄県内だけ特別の選抜方法で選ばれる。
沖縄県だけで試験をして、文部省から試験官が来て、口頭質問したりして選ぶ、別枠がある。
英語塾は1500人ぐらいいたが、米国留学受験科を作った。
翻訳通訳科も作ったが、どうしても沖縄は学力でも本土並みに追いつかないといけないと思った。
予備校と言えども、受験勉強を前向きにとらえて、真剣にやりぬく事で、人間が磨かれると思って、予備校に変更した。
先生方が一生懸命に頑張ってくれて、成果がでた。
一日18時間ぐらい働くころが多かった。
天は棚からぼたもち式に、成果を上げさせてくれはしない、努力して努力して努力して、そして成果が上がる、そういう風に感じた。
予備校を作って進学率を高めた。
国医制度も無くなることになり、生徒もがんばって、学力が向上した。
沖縄高校から助けてほしいとの要望があった。
1650名の定員に対して、400名しかいないので、給料がでない。
校舎は危険建器物に近い状態なので、全部立て替えなので。
沖縄高校を引きついたが、新しい学校として発足させた。
1期生は沖縄尚学院高等学校 とした。
県立が増えてきて、私立にくる生徒がいなくなって、全然先生方がの給料が出なくなってしまった。
昭和57年には助けてほしいとの要望があった。
当時教職員組合は強かったが、一回も団交をしなかった。
社会に貢献できる人材をどのようにして作るか、そこに念頭を置いた教育を進めている。
英語塾は初等、中等、高等 3つのコースがあり 週3回やるが、選択科目として、他の科目を入れていた、数学、国語、社会、法律、簿記など。
受験は意識しないで、学校的な事をしていた。
父が初代塾長だったので、父のアイディアだった。
私は英語だけを担当していた。
予備校では受験に合った英語、にする。
受験を目指す根柢の考えとしては、沖縄は特に若い人たちが亡くなっているので、若い人材が失われている、其中で教育をしっかりしなくてはいけないと思って、塾を始めた。
知的なレベルを上げるのにはちゃんとした教育をしなければいけない。
知性が感じられる社会ができないものか、といふうに思う。
戦争を経験しているので、戦争に反対する知性が理想的な姿勢に移行する訳ですよ。
受験勉強は教育の正常化をうばう、平和教育に徹するべきだと、人間は。
予備校で有っても教育の一端をになっている人間作り、そういう考えで沖縄はやらないと、高校も少なかったので、教育という点では学校だけではなくて、予備校も教育の一端を担うと言う気概を以って、やらないといけないと思っていた。
予備校で有りながら、温かみ、厳しさ、知性の感じられる人間作り、を目指した。