2013年12月26日木曜日

枡野 俊明(住職)        ・禅の心を暮らしに生かす

枡野 俊明(住職)    禅の心を暮らしに生かす
1953年、神奈川県の生れ 建功寺18代の住職で、又庭園デザイナーとしても国内だけでなく海外でも禅の庭の創作活動で高い評価を受けています。
今男女を問わず、様々な世代の人が禅の教えや言葉に引かれているといわれます。
枡野さんの著書はベストセラーと成り、法話を聞く会にも多くの人が集まります。
禅僧という立場から禅の教えを判りやすく語っていただき、新しい年を迎えるに当たって私たちが良い一年を送れるよう、暮らしの中で実践できる事などを教えて頂きます。

禅が注目されているが、一つは現代社会はストレスを感じている時代だと思う。 
物事が全て早く動いてゆく。
仕事をドンドンこなしていかなければならない。 
休むことなく動かなければならず、心がつかれてしまっている。
心の安定、安寧に魅力を感じている。 
20世紀は物の豊かさを実感できるよりどころだと信じてきたが、収入も増えて欲しいものを買うと、次の物、次の物を欲しいと思う(執着心)
執着心がドンドン膨らんでいってしまう。(執着心のスパイラル)
何が幸せなのか判らなくなってしまう。
本当の人間の豊かさ、幸せは何なんだろうと、考え始めた。 ヨーロッパが早かった。

物の豊かさが人間の生活の豊かさではないのではないかと思い始めて、日本、中国の一部だとか、心の豊かさこそ大事だと永年言ってきたじゃないかと、そこに目が向けられてきた。
ふーっと心の安定、心をどう穏やかにするかと言う風にむいてきた。
生活そのものが禅の修行だと考える。
「行、住、坐、臥」 皆修行なんだという事です。作務 生活そのもの全てが修行だととらえる。
言葉や書物では伝えられない、自分が行動をして行って、其中で自分がすとんと気がついた事、その気付きを大事にしてゆく。
生活の中の一つ一つの中で自分がふっと気がつく。
香厳撃竹」 僧(香厳)が墓の掃除を毎日毎日していて、或る日瓦のかけらが箒の先に当たって、竹やぶの竹に当たって、カーンと音がして、これだと覚った。
物事は因縁、一つの物では成り立たない。
瓦のかけらがあって、竹があって、箒があって、掃いた自分がいて、「カーン」と音がする。
原因、と縁が合わさったから初めて物事が成り立ってゆく。(大乗仏教の基本)

自分がデザインして出来上がった庭に春風が吹き、芽が出てきて、花を咲かせるが、人間がどうしようとするはかりごとではない、人間の謀りごとを越えている。
人間の謀りごとを越えている事を仏教では、ほとけだとか仏性と言うわけです。
それを大宇宙の真理だと私は言っている。   それは身の周りにどこにもある。

庭園デザイナーはわたし自身の修行の一つだと捉えています。
鎌倉中期から室町中期までは禅僧が自分の修行で会得した心の状態を何かに置き換えて表現しようとした。
禅はどう生きたらいいかと言う様に考えて、哲学に近いが哲学とも違う。
哲学は学問なので理論的に証明すればいいが、禅は行として続けていって、身体で証明しようとしている。
形の無い物を何かに置き換えて表現しようと、禅僧たちはかつてした。
平面に表現しようとしたのが、画僧  漢詩の世界が好きな人が、五山僧、空間的に表現しようとしたのが石建僧 庭園をデザインする僧 
一番有名なのが夢窓疎石
現在、僧侶で庭園デザインをしているのは私だけになってしまった。
座禅を組むという事は心が穏やかになる、いらぬ事に心が躍ることがなくなる。
調身、調息、調心 身体を先ず整える 次に呼吸を整える そうする事によって心を整える。
そうしないと座禅はできない。
初心者は作法があるので禅寺にいって学んだほうが入りやすい。
慣れてくると、椅子に座っていても、立っていても出来るようになる。

今の社会の特徴はあまりにも情報過多になっている。
選ぶ側が右往左往して、不安になる。 
起きてない事に対しても不安を感じてしまう。
今と言う事に対して徹することが必要、如何に自分の命を込めて行動してゆくかと言う事が不安を取り除いてくれる。
達磨大師が 弟子慧可に不安があるなら、不安を出してみなさいという。
出せないという事は実態がないと気付く。
先の事を不安に思っても、起こるかもしれないし、起こらないかもしれない。
脚下照顧 自分の足元を照らしなさい、そこに全力を投入しなさい。

人間関係に疲れてしまったという相談は多い。
自分をよく見られたいと、虚像が出来てしまって精神疾患見たいになってしまう。
昔は役割分担があって、組織的に、自分たちの立ち位置が判って、グループで成績を上げていったので横のつながりがしっかりしていた。
今は全部個人の競争になってきている。
それを数字だけで見比べられるのでストレスがたまってくるし、自分の得た情報を他人に教えたら、取られてしまうかも知れないという様になって、他人に陥れられてしまうかもしれないとか、会社の同じ部署の人を信じられなくなってしまう。
全部が競争相手になってしまい、相談できる相手が無くなってしまう。
数字、物だけを評価する、結果だけを評価する。
過程の評価が無い、それらに精神的な悩みを抱えて行って、周りには相談できない。
そのような人が禅寺に相談に来る。

人間関係 自分を良く見せたいという執着心がある。 
素直に表現できる人との付き合いをする。
周りの人間がどういう人間であるかとよーく見る事に依って、自分の先入観で見てしまうという事が無くなってくるのではないか。(成長させるために、厳しい言葉を言う場合もある)
自分が嫌なことをされたことは人には決してやらない。
自分の中の自分自身を信じてやってゆく。
坐 人、人(もう一人の自分)と話しあって、行動する。 
一番見ているのがもう一人の自分なんです。
手紙でいろいろ反響をもらっている場合が多い。

おだやかな表情で穏やかな話し方をすると相手も穏やかになる。
私が攻撃的な顔をして、攻撃的な言葉を発すると、相手も攻撃的に対応する。
和顔愛語(わげんあいご) 穏やかな笑みを浮かべながら慈しみの言葉を発する。
そうすると相手も返してくるので、自分も心地良くなる。
心が荒れていると、言葉も当然荒れてくるので、言葉は心のありようが出てしまう。
立ち居振る舞いを整える。 居儀を整えることが仏そのもの。
お辞儀、挨拶、話すときの心のありようは、立ち居ふるまいから繋がっている。
物事の始まる時点 物事が終わる時点、があるが、この1年間を過ごしたときに生産する、1年間をリセットする事が、お寺でやっている除夜の鐘 百八の煩悩をそこで振り払ってゆく。
清らかな心になったところで初詣でに行く。
一度初めに良い縁を結ぶことを縁起がいいという。
1年を良い縁を巡ってゆくようにと言う事で、初詣にゆく。

お守りは御神体の分身を自分が預かる、身につける、預かったものに何かあってはいけないので、危ないことには避けてゆく、結果的にその人を守ってゆくことになる。
禅僧は年が明けたときに、いつ自分の死が巡ってきてもいい様に、遺偈という漢詩をかく。
父が最後に残した遺偈は
「草を取り、誠経を整え、これ八十七年 ただ建功のために尽くす 信じて歩すれば安全静かなり」 
父は掃除、草取りを年中やっていた。 「建功」寺  名前が「信歩」
今年1年間はその言葉を寄りどころに生きていこうと自分で選んで目標にして、ノートに書いたり、書いて壁に張ったりして、違ったその年が始まるのではないでしょうか。
生きてゆくという事はどうしても何かに捕らわれてしまうが(執着心)、実は生れて来た時には何にもない。
亡くなってゆくときも何にも持ってゆくことはできない。
「人間本来は無一物」 ここに気が付くともう一回やり直しができるとか、使わないものはドンドン手放して行ってもいいんじゃないかと、守ろう、守ろうとするから人間は苦しむ。
そこに気がつくと気持ちが楽になる、凄く心が楽になる。
「無一物中、無尽蔵」 人間何も持っていないけれど、だれしも無尽蔵の可能性が皆さんの体の中に秘められている、だからやればできるんだという事が「無一物中、無尽蔵」。