藤本文昭(空襲・戦災を記録する会・全国連絡会幹事) 残しておきたい空襲・戦災記録
1941年12月8日、真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争は、300万人を超える戦争犠牲者をかぞえ、数々のかなしい出来事が起こりました
戦時中愛媛県今治市はB29の空襲を3回受けています
藤本さんは教鞭を取っていた高校が空襲で崩壊し、校長を含む教職員5人、生徒4人が命を落とした事を知り、2002年から空襲体験者や、空襲にかかわったアメリカ兵の聞き取り調査を始めました
2007年ワシントンで日系2世の聞き取り調査をしたとき、真珠湾攻撃に参加した、今治市のゼロ戦パイロットが関わったハワイ、ニイハウ島事件の事も知ります
日本の真珠湾攻撃の時、ハワイ、ニイハウ島でどんな出来事があったのか、戦後68年、記憶の中から消え去ろうとしている悲惨な戦争の記録を残し、2度と戦争を起こさない様にしようと云う想いを、空襲戦災を記録する会、全国連絡会議幹事の藤本文昭さんに伺いました
発端、私が勤務していた今治市内の私立高校で2001年、文科省から総合的な学習の時間を高校でもスタートするようにとの、準備段階でした
当時、高校1年生を担当していた
生徒の一名が学校の沿革史の一行に、昭和20念4月26日今治市爆撃、校舎全壊、校長他生徒あわせて9名が亡くなると書かれていた、私に聞いてきて、空襲で焼けたのだと云ったが、もう少し詳しく知りたいと云う事になり、母校の前身である女学校の戦災の記録を発掘する事からスタートして、今治市の戦災の発掘、愛媛県の戦災記録と段々と広がって行った 平和学習
ハワイのニイハウ島事件
調査発掘し終えて、複眼的視線で物事を見てみようとの事から、ニイハウ島事件を知るきっかけになったのは、戦時中に日本にいて、敵国人と言われたアメリカ人、イギリス人、だとかが、どういう境遇にいるかを調べていた
特にアメリカをテーマにした
アメリカにいた日本人、日系人はどういう状況であったのかを調査し始めたところ、対象として協力していただいた、日系のハワイ生まれのおじいさんからアメリカ本土でも大変な思いをしたが、ハワイでも真珠湾攻撃を受けた直後は、日本人、日系人は辛い思いをしていた
ニイハウとうと言うところで日本兵を助けた日系人がいると云う事で、白人の怒りを買う、大きな引き金になったと云われた
生徒と一緒に国立公文書館に調査に行ったときに聞いた 近くに住んでいた日系二世の人
日系二世が日本兵を助けた記憶の話だったが
ニイハウ島はハワイ諸島で日本に一番近い島 個人所有の島なので観光地にもなっていない島
赤土ばっかりなのでいい作物は育たない、牧畜とか養蜂とかで細々と生活をしていた
ロビンソンと言う人が所有していたがラジオが1台あるのみ
日本とアメリカが戦争を始めた事もその島の人は知らなかった
日本の飛行機が不時着したが、パイロットの西開地重徳さんはピストル、書類を奪われる
パイロットは取り返したい思いがあった、原田良男という日系人と奥さんに保護され助けられる
ネイティブの人達との関係が悪くなってそのパイロットは殺されて、現場に居合わせた原田良男さんも猟銃で自殺すると云う顛末です
そのパイロットの人が今治の人だと判った
原田さんは日本には一度も来たことのない人だった
戦前、日本人学校もあり、日本の教育も受けていた人だった
ハワイアンが日本兵をやっつけたという報道がされた
ハワイの地元の新聞に掲載された
戦争の話は被害者の話、途中から攻撃した側はどうだったんだろうとか、空の上から爆弾を落としていた人たちはどういう想いだったんだろうかと、視点の違うところから聞いてみようとスタートする
学校には予算が無いので自腹で行う
全国に戦争を記録する会があるので、そういうところでアメリカ軍の資料を沢山収集している人がいるので、攻撃した人の話、等を教えてもらう様になる
国立公文書館に行けば詳しい事が判ると云う事が判った
今治を空襲した人に会えたのはアトランタにいた人
最初メールでのやり取り、段々まどろっこしくなって是非本人に会いたいと云う事になって、生徒4名を連れてアトランタに行った
当時84歳 B29に乗って日本国内を爆撃していた人たちは、自分たちは命令を受けて、命令に従って攻撃したので個人的感情は考えもしなかったと云った
今治の時にも、地図の一点にしか過ぎないというイメージしかなかったと云った
今治の攻撃の時の感情を聞いたが、何にも感じなかった、今治は良く燃えた、この作戦は成功したと云う想いで引き返して行ったというような話だった
これが1日目のインタビュー
2日目 最初、私を別室に呼んで、昨日の晩に随分考えたと、生徒の4人の家族の中に被害にあった人がいるか気になると云う事で、そのことを聞いてほしいとの事だった
4人の家族にはいなかった事を話すと、ああ良かったと云うような動作をした
これで気分が楽になったと云う もしかしたら自分が非常に悪い事をしたんではないかと思った、これまでこんな思いをした事が一度もなかったという
初めて攻撃された側、被害者側の想い、存在に初めて意識が向いたとの事
2日目以降のインタビューでは同情する思いがでるが、謝罪はする気持ちは無い、命令で行動したものだから、と言う事だった
其3年後に今治市に戦災の碑を建てるが、その人は除幕式の日に参加した
戦災の民間団体の方などとも話をしていた
戦争では、自分の心を無にしないとできないような状態ではなかったのかと推測する
其生徒たちは既に社会人になっているが、先生と共にフィールドワークをやったことがいい思い出になったと云っていました
その後の自分の、一方的なもの考え方でなく、じゃあ相手はどう考えているか、逆の立場であったらどう思うだろうと、複眼的なものの考え方が出来るようになったと云ってくれている
原田さんの家族は?
パイロットの日本人は書類を取り返したいので手伝ってほしいとの思いであったが、それさえ戻れば、自分で燃やして自決すると云ったと云う
アメリカ軍に奥さんは身柄を拘束される スパイ容疑
1944年の夏まで3年ぐらい家族から引き離されて、監禁所に容れられる
1944年の夏には自由になる
カウアイ島に戻って3人の子供と再会して、裁縫がうまいので洋服の仕立てをやりながら3人の子供を育てるが、陰口をたたかれながら、生活をしてきたとの事だった
1991年にお亡くなりになったが、3人のうち2人はアメリカ本土に行き、リタイアして昨年にお目にかかっていろいろお話を伺いました(会いたいとリクエストしてから3年掛かる)
アメリカでは、原田さん家族は裏切り者のレッテルを張られた人達なので、会うのに時間はかかった
日本人に会う事に対しては重たい事だった
ニイハウ島事件の関係者は皆いなくなったが、戦後ずーっと引きずっていることは原田さんご遺族にはある
お孫さんは50歳代で、今目の前の困っている人を助ける面では、おじいさん、おばあさんのした、この行為は誇りに思っていいんじゃないかと、ただ間違ってはいけないことは日本に対する愛国心だとか、アメリカに対する忠心と言う事っではない
目の前で一人でどうにもならない状況の人が書類を取り返したい、それを何とかしてやりたい、
そのあとは彼が自決するか投降して捕虜になるかは認識していないが、そういう想いをおばあさんから直接聞く事が出来た
その行為は誇りに思っていいと思うとお孫さんはおっしゃる
3人の子供達はそのことを話そうとはしない
お孫さんが背中を押してくれなかったらお子さんたちはインタビューには応じてくれなかったかもしれない
国と国が戦をし始めると間に立って、友好だった人々が敵同士になってしまう
アメリカ生まれで日本で教育を受けて又アメリカに帰って行った人、偶然日米開戦の時に日本に住んでいたものだから、日本兵としてアメリカに対さねばならないと云う悲劇があったり、逆の立場があったり、原田さん家族の様な事があったり戦争は残酷だなあ思うし、戦後も続く
複眼的ものの見方が必要、記録してゆくことも必要
現在は横浜に住んでいるので、ここでの事も掘り起こして行ってみたいと思う