白潟八洲彦(砥部焼き職人) 世界平和を祈って、ろくろを回す
愛媛県伊予郡砥部町で長い間窯元をされている。
第一線でそれぞれの道で活躍し、模範的な仕事をされてきた方に贈られる黄綬褒章をこの秋に受賞されました。
砥部町は250年の歴史を持つ焼き物の産地です。
この街で生まれた白潟さんは焼き物の手伝いをしているうちに、いつの間にか、砥部焼職人として一本立ちされました。
大型の轆轤を使い1mを越える白磁の作品が特徴で、ジュネーブの国連欧州本部にも大きな地球儀が飾られています。
世界平和を願い、轆轤を回す、白潟さんに伺います。
地球儀、1mを越えている。
いい土があっても、いい腕があっても轆轤が回ってくれないと仕事にならない。
大型の轆轤が手に入って大活躍してくれました。
その後自分で改良した轆轤を作りました。
地球儀が国連欧州本部に飾られて、「生命の青い星、命の地球」 1995年に製作
砥部町が国連創設50周年のお祝いにと言う事で作ることになる。
世界平和、国境を書かない、国境のない地球儀を作る。
大陸が真っ白に塗られている。 海が青で、砥部中の窯元から呉須(青い顔料)をひと匙貰って作る。
5人の男性が手を握り合った絵が入ったものが軍縮会議上のロビーに置いてある
両親は磁器製作はやっていなくて、昭和45年に私が窯を作った。
砥部焼全体では世襲は少ない、一代限りが逆に多い。
定時制の高校がありそこに入って、昼間にいとこと一緒に共通の祖父、に昼間時間があるなら手伝えと言われてこの世界に入ったのが始まりです。
子供のころは山や川自然相手に遊び回っていた。
陶石(白い石)を買うが、場所に依って陶石の性質がちょっと違う。
もともとは砥石の産地で、正倉院の文書にも砥部の事が書いてあると言われている。
230数年前、江戸時代 砥部は松山に近いのに大洲藩だった。(飛び地)
有田では砥石が出てくる、磁器も出てくるので、砥部でも磁器ができるのではないかと有田より、160年遅れてスタートする。
瀬戸、九谷でも有田に技術を学んだ。
有田焼の場合は赤絵が上絵だが、基本は白磁に呉須だと思います。
益子は陶器の町(益子焼) 白いのが磁器、茶、黒いのが陶器と思ってもらうといいと思う。
一番大事なのが耐火度、可塑性がないと陶器には使えない。
備前焼も陶器 信楽焼は陶器
原料の良さをいかに生かしてゆくかが、職人の仕事。
砥部では良い土が取れる。 粉砕して粘土を作る。
裏方に支えられて窯元は仕事をさせてもらっている。
未熟な間は土は意地悪をする、こうしたいと思っても言う事を聞いてくれないが、腕が上がってくると、土も判ってくれて土がこうなった方がいいの、と土が先に動いくれるような感じになる。
失敗をたくさんして身体で土との相性を覚え、努力する。
ものを作ってゆくという事は面白い。
大量生産、は石膏型を使ったり、機械轆轤を使ったりいろいろ手法がある。
16年ぐらい前から毎年、干支の置物を作っている。
来年は馬、デザインがいろいろと大変、大きさを考えながらやる。
フィリピン大潮で大変だった。
レイテ島 2年間いたところ 青年海外協力隊 向こうの国から要請がある。
45年前に焼き物の隊員がほしいと言ってきて、幸い行く機会があった。(2年間)
野焼き、原始的な手轆轤があるのみだった。
電気轆轤を持っていこうと思っていたが、電気を使っていなくて、蹴り轆轤を作って、窯も何基か作った。
土はいい土がなかなか見つからなかった。
焼き物は海辺に近いところでやるのが多いので今回の大潮については心配している。
轆轤は面白い、と同時に難しい。 どういう形を作りたいか、次々に出てくるようだと楽。
ほとんどの時間はなかなか頭に浮かばない。 駄目な場合は気分転換の仕事をしたりする。
形が気にいらない場合でも焼きまではいったが、最近は上手く形ができなかった場合はもう一度練り始めるようになってきた。
もの作りは集中して、気持ちよく作りたいが、雑念が入ってしまうのでは。
物作りもあまり気負わないでやった方がいいと感じたことがある。(80%程度)
短気なんだけれどのんきなところもあり、集中力、創造力なども必要かと思う。
昭和43年にフィリピンに行ったときに、日本兵がやった残虐行為をいろんな人から聞かされた。
人類と言うものは戦争の歴史だと思うので、もうそろそろ止めてもらったらいいと思って、そのためには国境がなくなればいいと思っている。
国境のない地球儀を作る。
原爆も唯一の経験国なので発言していかなければいけないと思う。
黄綬褒章 思ってもいませんでした。
現代の名工に選ばれて、そこで職人としては満足して、県から言われた時はお断りしました。
砥部焼の業界には受賞の流れがあって、貰っておけとの話があり、受諾する。
今までやってきた仕事をより完成度をあげていこうと思っている。