2013年12月12日木曜日

西澤孝一(坂村真民記念館)   ・念ずれば花開く

西澤孝一(坂村真民記念館長)    念ずれば花開く
愛媛県伊予郡砥部町に、昨年の春、坂村真民記念館がオープンしました。
坂村真民は弱者に寄り添い、勇気を与え97歳で亡くなった癒しの詩人で、其作品の生き方は多くの人たちに愛され続けています。
真民さんの詩は人間としていかに生きるかを、自分に問い続け、苦しみ、喜び、悲しみを判り易く表現したもので、なかでも石碑に刻まれている「念ずれば花開く」は御存知かと思います。
8歳で父を失った真民はどん底の貧しさの中、中学生になり、授業が終わると、往復12kmの道を走るように家に帰り、俵を編む内職仕事で家計を助けます。
25歳で朝鮮にわたり教員と成りますが、日中戦争がはじまります。
戦後故郷の熊本に帰国、愛媛県に移住して女学校の国語の先生になりました。
明るい自然に満ちた砥部町の山や川が、生きる力と詩の心をはぐくんで、亡くなる平成18年12月まで詩を作り続けました。 
坂村真民記念館の西澤孝一さんと真美子さんに伺いました。

「念ずれば花開く」  日本全国に石碑と成って残っている。 ほとんど自分で書いたもの
一番最初の碑ができたときには私(真美子)は21歳でした。 (京都 常照寺)
父の詩の事については知らなくて、ただの国語の先生だと思っていた。
除幕式があって、父の詩にふれて、父にはこのような世界、人達がいると初めてふれた。
除幕式に時雨が上がって、空気が動いた様な不思議な感覚があった。
もし除幕式に出なかったら、父の事が、この様な形で流れが、記念館にまで続いてゆくことがなかったと思います。
詩は読んでいないけれど、父の詩の世界の中では生きてきている、生活を通じて。
私(孝一)が先生にあったのは高校生 16歳の時です。
詩人とかではなくて坂村真美子さんのお父さんと言う形であっています。
詩人として初めて知ったのは18歳の時です。
詩集を県外の友人から紹介された。
真民が宇和島で高校の先生をしていた時に出会った。
大学をでて県庁に就職して30何年間務めるが、詩を作るとかは全くなかった。

18歳の時に読んだ詩集には家族を想う詩が多く、優しい人だなあと思った。
自分自身には厳しい物を抱えながら生きている人なんだなあと思いました。
父は自分の生活時間が決まっていて、自分の部屋でやっている。
仏教に出会ったころは、近くのお寺に座禅に行っていた。
自分を律する事がとても強かったが、家族にはこうしろとかは言わなかった。
春になると野に行ってせり、のびるだとかを取ってきたり、夏は海水浴に行ったりして、一緒に過ごしている記憶がある。
父はこうしなさいと云わない代わりに、私たち子供は自分で物事を決めるようになっていた。
父は生活の苦労というよりも、人間としてどう生きるかに、おもきを置いていたので、どう生きるかのほうを考えていたようだ。
  
「念ずれば花開く」  (自分の母を考えて作ったといわれる。)
「苦しい時、母がいつも口にしていたこの言葉を 私もいつ頃からか、唱えるようになった。
そしてそのたび、私の花が不思議と一つ一つ開いていった。」
祖母は5人の子を苦労を苦労と言わずに頑張って育ててきた。 真民が46歳の時の詩
祖母に対する恩返しだと云っていた。

自分自身がどう生きてゆくか、いい詩をかいて少しでも困っている人たちの助けになるような詩を一遍でも多く書きたい、其為には自分自身をもっともっと鍛え、もっともっと修業をしなくてはいけないと考えていた。
午前0時に起きて、真民流体操(ヨガのような)をして、お経を唱えて、ノートを書いて時間を過ごして、3時36分に外に出て、家にある「念ずれば花開く」の碑に額を付けて祈る。
鳥の声を聞いて、自分の部屋に戻って自分の仕事をして、其あと家を出てゆく。
毎日、雨の日も雪が降っても、正月でも休みなく、同様にやっていた。

796冊のノートがある。 
昭和26年から書き始めて亡くなる前の歳までずーっと書き続けたノートです。
詩も書いているが、自分自身が今日何を考え、どのような本を読んで、それをどのように受けとめた考えたか、其中から生まれてきた詩を書き留めて、何日かして其詩を推敲して、又違った詩を書くとか、そういう積み重ねがノートになっている。
よく書いた時期は1冊(30から50ページの大学ノート)が10日ぐらいで終わってしまう。
真民の、どのような時代を生きてきたのか、詩を作った背景を知るためにも、考え方を知る上でも是非必要なために、真民のノートを1年半懸けて、ざーっとですが、読んだ。

「歌」
「嬉しい時には嬉しい歌がうまれ、悲しい時には悲しい歌が生まれる。 出来るだけ嬉しい歌を作ろう。」
人生の事も言っている。  辛い事、悲しい事があっても、できるだけ嬉しい歌を作りたいと云う願いを込めた前向きの詩です。

「椿の蕾」
「童女は椿の蕾を手に一杯取っていた。 無残なことをする子だと思っていたが、私は黙っていた。  青梅ほどに膨らんだやえの椿の蕾までその子は取っていた。
いたずらにもほどがあると私は次第に腹が立ってきた。  だが童女の瞳は涼しかった。
冬の空の様に澄んで、けがれていなかった。  いたずらからだと考えたのは間違いだった。
童女は一つ一つむしっては、真っ赤な色に眼を見張っているのだった。
青玉のような蕾の中に、朱の色さした花弁が手品のように包まれている、自然の神秘を観ているのだった。
大人の知らない驚きを教えられてるのだった。
わたしにも一瞬稲妻のような驚きが身の内を走って行った。
童女の頭に夕日が落ちていた。 むかれた椿の朱は流れていた。」

初々しい眼で見ている。
何を観ても一生懸命見ている。
人は歳を取ると経験済みだという目で見てしまうが、自然に対する純真な心根を感じる。
90歳代を越えて来てから、ノートによく出てくる言葉 「しっかりしろ真民 まだまだこれからだ」
毎日出てくる。  
毎日反省しながら、もっといい人間になる生き方を求めている。亡くなるまで。 凄い人だと思う。
毎日、ろうそくに火を付けてお線香をあげるが、自分の心にも火を付ける。
何かをするのに、自分に言い聞かせる。 
云い聞かせないと流されてしまう。
自分からTVに出たりして、詩を人に知らせようとはしなかった。
周りが人づてに、全国に広がって行った。 
真民の詩をもっともっと知ってもらいたい。
「念ずれば花開く」の石碑が全国で700  世界で730ある。

相田 みつを 詩を書いて言葉からいろんな思いを感じる。
真民からも同様なものを感じる。
根底に仏教の教えと言うものが、両者が若い時に仏教を深く学んでいるので、そこが根底にあって、真民は真民流、相田さんは相田さん流の言葉で、表現されていると云う違いであっても、根底は同じものですね。
相田さんが無名の頃、鎌倉で真民が講演会をしていて、そこで最初出会いがあって、真民と相田さんの手紙のやり取りがあった。
真民は2006年、97歳で亡くなる。
記念館が建ったのは平成24年3月11日   学校があったところ。 
真民の詩を若い人たちに是非知ってもらいたいと、記念館を作った。
自分の人生の参考になる詩が沢山あると思う。

父が亡くなる前、鳥が好きで、正月にはよく「鳥になる」と色紙に書いて、2月には「国境の無い鳥になる」に替って3月には体調を崩してしまった。  最後の遺言のようなものと思っている。
父にとっては国境がない事がとても大切に思っていた。
昔から差別をとっても嫌っていて、国境がない事は、争いの無い事でずーっと望んでいた。
父が全集を出していて、扉にいつも言葉をかいていた。
父の生き方が解るような気がする。
1卷 縁に生きる 2卷 和に生きる  3卷 願いに生きる  4卷 いつ、意気に生きる 
5卷 守られて生きる6卷 共に生きる 7卷 善に生きる  
ここで父は亡くなった。 その後の詩を纏めて8巻は1周忌に出した。
父だったらなんて書くだろうと思ったら、ノートに祈ると多く書かれているので、「祈るに生きる」にしようと思った。
若い人に真民の願い、思い、を受け継いでもらいたい、と思う。

真民五訓
①くよくよするな ②ふらふらするな ③ぐらぐらするな ④ぼやぼやするな ⑤ぺこぺこするな