山本賢吾(写真家) 空飛ぶトラック1000機を追って
第二次世界大戦の頃アメリカで作られた旅客機DC3型機は、当時は極めて優秀な飛行高性能と頑丈で使いやすい事から空飛ぶトラックと呼ばれ、旅客機、輸送機合わせて約2万機以上がソ連、日本でも作られ、世界中の空で活躍しました。
戦後は軍から大量に払い下げられた機体が世界中の民間空港で利用され、日本でも20機近くが旅客機として各地の空を飛んでいました。
最近は日本で飛んでいる機体はありませんが、やはり使いやすい事頑丈なことが愛されて世界各地で使われています。
DC3にほれ込み、今でも飛んでいる機体のすべてを写真に納めようと努力を続けているカメラマンがいます。
世界に残る1200基のうち、すでに1000機を撮影、空飛ぶトラックCD3型機に寄せる熱い思いを伺います。
DC3とはどう飛行機か?
ダグラス社が作った双発機、飛んでる姿が美しい、プロペラ機
第二世界大戦の前に作られた。 前輪が大きく後輪が小さく 機体が斜め上を向いている。
伊丹空港の近くで、生れたので、離陸する飛行機が旋回しながら高度を上げてゆくよう光景を見ながら育ったので、飛行機にあこがれた。
空飛ぶトラック 高校生のころに、雑誌をめくっているとそこに開発地上国で体に鞭をうちながら、騙し騙し飛び続ける第二次世界大戦の輸送機、爆撃機の写真集という短い文章があって感化されて直ぐにその雑誌を買った。
50年60年して第三世界で第二の人生を、体を酷使しながら、輝きながらも、使い捨てされてゆく、哀れさ、その辺を表した写真集、スイッチが入ったとしか説明ができない。
滅びてゆく姿をとった写真集だった。
第一卷、第二巻が出されたが直ぐに取り寄せてみたが、まえがきに書かれていたが、飛行機を取材しているときに、飛行機が撮影時に落ちて亡くなられたと記載されていた。
凄い衝撃を受けて、こんな素晴らしい飛行機の姿を後世にのこしていかないといけないと思った。
ステファンさんが亡くなられたので、誰がするのか、私でしょう 見たいに思って、大学は英語の学校に入り、出版関係につながると思って広告会社に就職した。
営業に入ってカメラマンからカメラの撮影技術を教えてもらった。
4年目過ぎに、TVを観ていたら、オーストラリアでCD3が落ちたというニュースを観た。
シドニーのバタニー湾に沈むが、其時に映像が全部残っていた。 30秒流された。
クジラが海に潜るような形でスーッと海に入って行った。
其映像もみて、そこで日本でこんなことしている場合ではないと、会社を辞めた。
取材を始めて25年になる。
85カ国前後の飛行機を撮った。
最近はインターネットで機種をインプットすれば情報は大変多く得られるが、私が写真を取り始めた25年前では先ずは書籍、情報は5年前、10年前 宝探し状態で、聞いて聞いて、600機、500機になり、1990年代には450機、400機になり、確実に飛行可能な飛行機が減りだす。
姿を残さないといけないと400機を追った。
其為にあらゆる種類の職業の仕事をこなしてきた。(今でもそうだが)
.150~200万円 1年間で溜めて、使えるお金100~150万円で外国に行った。(20数年間)
商業出版なので写真を撮るのに、所有者の了解を得る必要がある。
簡単には了解を得られない場合がある、(特にイギリス、アメリカ等)
オーナーの心を解きほぐすようにしていって、撮るように交渉する。
先ずは人間を認めてもらう。 世界中に知り合いができた。(数百人)
最近では、DC3はあまり安全では無くなりつつある。
オーナー、パイロット、整備士と懇意になった。
ドイツ系ブラジル移民、マシャードさん 3日宿泊した。
俺の飛行機、もう一機併撮しないかと言われた。 1時間飛ばすだけでも数十万円掛かるし、パイロットも必要、空撮よりなくなってゆくDC3を撮影する事を優先していた。
俺がただで飛んであげるから、お前撮れと云う事になり、セスナ機も用意してもらってそれに乗り、空撮を初めてさせてもらった。
今までに無い世界、空撮は頭になかったので、まさかブラジルでこうなるとは思わなかった。
「飛べダコタ」映画 1946年イギリスの飛行機が佐渡の浜に不時着した。
其話を映画化しようとの事になり、映画会社がDC3をどうするか、私にところに来て、購入の話と、海外で買ったものを分解して、組み立てると云う事を担当させてもらった。
専門家に応援してもらった。 アメリカの友人 パオロット、オーナーで、整備士で連絡をしたら一つ返事で対応してもらった。
DC3については私のところにいろいろ相談が来るようになった。 購入の話とか修理の話とか。
途中で辞めようとは思わなかったのかとよく言われるが、夢を追うものの格言
夢を果たせない人は、人生いろんな身の回りの事、夢を辞める時に試練がある。
お金、身の回りの事、あらゆる理由を付けて夢を辞める、辞める理由を自分で付けているだけ。
夢をかなえる人は、それに打ち勝つ、いろんな試練が来ても自分なりに乗り越えていって、自分なりに夢を続けてゆく、続ける人だけが夢を追える権利があり、達成できる。
後、残っているのは200機 飛べるのは50機もないかもしれない。
20機が1年で無くなってゆく。(スクラップとなる)
再生してゆくDC3もあるので、800機ぐらいは継続してゆくのだろうと思っている。
国によって、かわいがられている国がある。
コロンビア、南アフリカが一番多く飛んでいる。
ボリビアでは低地の牧場に飛んで行って、牧場に着陸して、首都(高地)に肉を運んでくる。
徐々に道の整備をしてきて、道の輸送が発展してきたのでトラックの方が安価な為DC3にとってかわるようになった。
コロンビアでもジャングルに物資を運ぶのに利用されていたが、アンデス山脈を越えるのに4000mを越えなければならず、天候が急変するので事故が多発するため、政府が首都からアンデスを降りたところに滑走路を作り安全対策を行った。
北朝鮮にはDC3が24機残っている。
衛星写真でDC3がギリギリで判別できるので、、アフガニスタンでも飛んでいる。
海の中ではそこに行くまでのチャーター代等々、取材単価が高くなってゆくので、撮れていない200機だったら今までの様には行かない。
今後取材費との戦いです。 出来るだけ完全な形として、本にして出版したい。