2013年12月22日日曜日

新保 浩(社会福祉士)      ・自閉症の子と手を携えて19年

新保 浩(社会福祉士)   自閉症の子と手を携えて19年
長い人生の間には家族の誰かが、ある日突然不治の病に冒されたり、不慮の事故にあったりする事があります。
そんな時人々は我が身に降りかかった境遇と一体どう向き合って生きているのでしょうか。
神奈川県川崎市にお住まいの新保 浩さん48歳、 新保さんには19歳になる自閉症の稜麻君がいます。
先天性の自閉症は直る見込みのない障害です。
全国におよそ36万人いるともいわれます。
今年春稜麻君が養護学校高等部を卒業 、施設生活を終えて家に戻ってきています。
新保さんの家にはほか認知症の父と車椅子の母も一緒に生活しています。
自閉症の子供の世話と、両親の介護に毎日明け暮れで大変ですねと、皆さんから言われますが、我が家では毎日笑いが絶えませんと、新保さんは明るく語ります。
4人がどのようにお互いを支え合って暮らしているのでしょうか?
社会福祉士の新保さんにその人生哲学を語って頂きました。

私と息子の稜麻 19歳 父が84歳 母が81歳の4人が家族です。
私は5時半に起きている。  昔からマラソンが好きで朝ジョッギングを10km、毎朝走っています。
50分ぐらいで走っている。(本格的にマラソンをやっている 心と体にリフレッシュ)
父はアルツファイマー型の認知症で、完全に車椅子の母の2人の食事の用意、息子の地域の施設に通っているので、そこに送り出しまで含めてやる。
簡単なものを配膳する。 
両親は自分で食べられるが、息子は横についていて、食事の介護をしている。
息子は家を9時半前に出て、夕方4時半には帰ってくるという生活です。

自閉症 自ら閉ざしてしまう症状と言う風に考えている人が多いのではないかと思うが、
引きこもりと自閉症を同じと勘違いする人が多い。
自閉症は先天的な脳機能の障害と呼ばれていて、親の育て方、生活環境で起こされる様なものではなくて、一生付き合っていかなくてはいけないものになる。
①コミュニケーションがうまく取れない 会話、自分の意思を上手く伝達できない。
 相手の言葉や行動を正確に理解できない障害。
②社会の中で生活する場面において、困難な場面に出っくわす事が多い障害。
 集団行動が苦手だったり、ルールなどをなかなか理解できないために、我が道を行くといった  行動をするために、社会生活の中でうまく適応できないような事があるような障害。
③多くの方がこだわりの様なものを持っている。
 活動や興味の範囲が非常に狭くて、例えば、積み木を一列に並べている事をずーっと楽しん  でいたり、同じ言葉をつぶやいでいたり、同じ場所をぐるぐると回っていたり、稜麻は細長いも  のに拘りがあって、細いものを持っていると安心する。
この3つが自閉症の特徴的なもの

子供の育て方が間違っているからこの様な症状になった、というような、間違った考え方が従来周りで言われていた。
親御さんが凄く苦しめられて、子供を外に出さないような時代があった。
坂本竜馬が大好きで稜麻 という字を付けた。
3歳ちょっと前、センターの長の方から他の子供達と違う行動があり、専門の機関に見せた方がいいといわれ、専門の医療機関に見せたら、自閉症だと言う事が解った。
自閉症だったら自分で治そうと思った。 2回目に見せたら一生直りませんと言われた。
息子がこれから生きてゆくには大変な障害があることが解り、目の前が真っ暗になり落ち込んでしまった。   妻も泣き通していた。   夢を毎晩のように見た。
夢の中では子供はなんでもないと言っているが、起きると現実を見ていつも落胆していた。

サラリーマンなので息子と離れている時間が多い、母親から24時間眠ることができないといわれた。
心の痛みは24時間起きていたと今になって思う。
心の重みは父親とは違った想像も及ばないような苦しみだったと思う。
コミュニケーションがとれず、自傷、肝癪、パニックを起こして暴れる行動をする。
聴覚が過敏になって、バイクの音で泣く、子供の声を聞いただけで泣き続けるとか、最後には皿を洗っている時に皿同士がぶつかる音だけで、泣いてしまったりすることがあった。
当時の我々には判らなかった。
マンションに住んでいて、下の階から抗議があり、精神状態が追い込まれていって、母親のほうの実家で日中は過ごし、帰ってきて息子はドライブが好きで、乗せて毎晩ドライブに出かけた。
眠るまでしていた。(でも家のチャイムを押すと眼が覚めてしまったり、夜中の3時に起きてしまったりすることもままあった) 

母親の心労はドンドン重なって行った。 
絶対に別れないで暮らしていこうと思っていたが、母親の精神状態を見たときに、息子を離さなければいけないと感じた。
皆が傷つかない選択は何かを考えたが、養護学校に通うと同時に離婚という選択をしました。
妻を解放させてあげたい、息子にとっても気持ちを楽にさせてあげたい、選択肢はそれしかないと思った。
実家に戻って生活する様になった。(子供は6歳)
この選択は間違っていなかったという風にしたかった。
当時は両親も元気だった。 送り迎えは両親にやってもらっていた。
3年生になってゆくうちに行動も素早く、パニックの行動も酷くなって、手に負えなくなってくる。
今のスタイルでは難しいと判断して、入所施設に入れて、そこから養護学校に行くスタイルにする。(4年生の時から中学、高校  9年間 週末は一緒に過ごす)

そよ風の手紙 ホームページ  2001年7月から立ち上げる。立ち上げた理由
①息子の成長記録を自分自身で取りたいと思った。 稜麻の元気日記 
最初は少なかったが段々みてくれるようになった。
同じような障害を持った親御さんが多い。
自閉症と言われた時にはインターネットはまだあまり普及されていなかった。
②私の立ち上げたホームページを見て、元気で笑顔になってふっと力が抜けるような、南国のそよ風の様なホームページを作りたかった。 (2001年7月)
週1回発信  毎日事件がある 良い事悪い事 いろんな感動を与えてくれる事が毎日ある。
公園のトイレに入った時に息子がキャーッと叫んだことがあり、警察を呼ぼうかとの言葉があり、
関心があるうちは、問題ないなあと思って、そういったことを載せたりしている。
ある夜突然「パパ」と呼んだが、私が初めてパパと言う言葉を聞いた。(11歳の時)
その言葉に嬉しくて涙が出た。(自分でなかなか言葉を発する事ができない)
私を父親であることを認知して、私の事を声にして言ってくれた。
嬉しくて嬉しくてその晩、子供を寝かしつけたあと、一人で乾杯しましたね。

その感動は本当に、1歩出来た感動が大きな1歩で、人が感じる、何十倍も何百倍もする感動で
息子にはそういう感動をいつも、もらっています。
24時間、365日稼働するリサイクルの工場長をやっていました。
夜中でも当然呼び出される様なところだった。
私の中の価値観が変わってきた。  自分に対する欲望があったが、それが普通だと思った。
自閉症の息子と暮らすうちに、大事なものは何かと思ったときに、お金、地位、名声ではないと思った。
大切なことは、本当に人にどれだけ優しくできたのかとか、人にどれだけ元気を出してもらえるようなことができたのかとか、自分の価値観がシフトしていった。
仕事には意味があり、それなりに貢献はしているが、直接、元気、勇気とかちょっとしたサポートができないかを考えていた。
子供が卒業することになるので、社会福祉士の免許も取ったし、何かできないかと言う事で、皆が笑顔でいられるように、私も笑顔でいられるような事が出来ないか、息子が卒業する数年前に思いました。

2,3年の間で、準備をしてスタートした。
両親にはバリアーフリー、息子の部屋を作る様に動き始めた。
卒業半年前に退職をして、新たな仕事の準備を始めた。
一般社団法人 「そよ風の手紙」
①心の奥にあった母親のサポート  ママサポートを実際に始めた。
 一緒に立ち上げた自閉症を持つ母親が中心に心のケア―を始める。
②絵カードの店 言葉が理解できない、文字が解らなかったりする場合に、トイレの絵のカードを  利用する事によって自閉症の方のコミュニケーションが取れるのではないかと、やっている。
③パステルアート教室  障害を持っているお母さん、障害を持っている子供は習い事にいけな   い。 
 動き回ったり、奇声を発したりしてなかなか受け入れてくれるところが無いので、我々が立ち上 げたらどうかと思って、指で道具を使わずに絵をかける教室を立ち上げた。
 (母親と一緒に出来る)