2013年12月9日月曜日

広河 隆一(ジャーナリスト)      ・人間の戦場をつたえる

広河 隆一(ジャーナリスト)         人間の戦場をつたえる
中東問題や原発問題を中心に、40年以上取材活動を続けています。
9年前から写真月刊誌の編集長も務めて居ます。
広河さんがカメラをむけるのは弾が飛び交う戦場だけではなくて、飢餓、公害、原発事故などで幸福に生きる権利を奪われた、人間の戦場にいる人々です。
原発事故にあった、旧ソ連のチェルノブイリにはこれまで50回以上行って、甲状腺がんにかかった子供達の姿を伝えてきました。
同時に子供達を支援するチェルノブイリ子供基金の創設や、その経験を生かして、被災した福島の子供たちの健康維持を支援する保養プロジェクトを作り力を入れています。
広河さんに伺いました。

フォトジャーナリストと写真家の違い 写真家は風景、料理、ファッションとか大事な分野がある。
フォトジャーナリズムは世界で起こっているいろんな問題の背景を知ったり、何が起こっているかを伝えたり、伝える事に責任を持っているのはジャーナリストの仕事であり、志の持ち方が違うかもしれない。
撮ったらそれでおしまいではなくて、持ち帰って人々に伝える事で仕事が完結すると云う事です
自分が写真家とは思っていない。
インタビューの場合はTVの様に時間を持って、その人の言葉のよどみ、言葉が切れてしまったりすることを含めた報告の仕方があると思うが、そういうのには写真は不向きですね。

大学2年までは山岳部にいて山ばかり登っていたが、その人たちと自分たちはこのままでいいのか、世の中のことを何も知らない、世界の中で何が起こっているのか、日本で何が起こっているのか、もうちょっと見るべきではないかと話あった。
見るための武器として写真を使って見ようとサークルを立ち上げて、早稲田の中にそういうグループを作った。
最初視覚障害者の問題、離島問題、阿賀野川の公害等に取り組んでいた。
大学を出るころに、職業としては成り立たないと思ったので、将来の道を考えたいと思って、イスラエルの中には社会主義を実践する様な共同体があり、そこで見て、将来を考えて見たいと、カメラは使わずに、生活していた。
途中で、働いたところが昔はユダヤ人ではなしに、パレスチナ人が住んでいた村があったという事を知ってしまった。
それがきっかけになって、見逃したまま、素晴らしい共同体で生活しましたと持ちかえることが行かなくなり、カメラを取り出して、歴史から消え去ってしまうような昔パレスチナ人が住んでいた村を写真に収めてゆくことをした。

イスラエル滞在3年間 日本に戻り仕事をしていたが、又戻ってみたが、或る男が泣きながら何故もう一カ月前に来なかったのだと云う。
その人の息子さんが射殺された。  其村で6人が殺される。
加害者は証言する人間を嫌うので、そういった外国人、ジャーナリストがいれば絶対銃を乱射しなかった筈だと云っていた。
そういう時にいるのがジャーナリストだろうと言われた。  
抑止力としてのジャーナリストだと教えてくれた。

難民キャンプが封鎖されて、照明弾が打ち上げられていた。
そこに行かなければならないと思いながら、恐さがあり、何とか気を取りなおして7時頃に、他のジャーナリストを探して、声をかけたが行かないと云うので、近くまで行って危なそうだったらそこで帰ってこようと思って、小さなレコーダーをスイッチオンにしてポケットに入れて、おまえは私を見届けるんだと、キャンプに入っていった。
唯大勢の人たちが殺された後だった。
人はTV、映画を観るときの感覚で戦争映像を観る事が多いと思うが、最初の人は身体のどの部分かわからないような肉の塊でした。
次に持ちこまれたのは、砲弾で頭が真っ二つにされたものでした。

イラクのバクダッドでは高性能爆弾で破壊されたシェルターでしたが、そこではそこに逃げてきた一般市民、お母さんが壁際に子供を抱いたまま、焼きついていたが、臭いが伴う。
腐乱するだけではなしに死臭が身体にまとわりついて、洗っても取れないと云うか、臭いが後まで影響して、日本に帰って来てから1カ月たっても、焼いた鳥肉でも食べられなかった。
綺麗事の戦争、ゲームの様な戦争とは真反対、身体に取りついてしまったと云う事で、それが何千、何万と重なったものが戦争と言うそういう感じがします。

自分がジャーナリストだと云い聞かせないとシャッターを切ることはできない。
一発大砲を打つたびに身体が凍えてしまうような感覚になる
人間には生きる権利がある。  幸福に幸せに健康に生きる権利があるが、それを奪われてしまう場所は世界に一杯ある、飢餓、難民、公害等がそうです。
人間の戦場と呼んでいる。  武器、兵器が飛び交う場所よりも力を入れて撮っていた。
薬害エイズ、公害、核の惨事、日本でも水俣病とか  戦場と繋がっていると思う。
犠牲と加害の関係は全くよく似ている。 
加害者は被害を隠すという鉄則はあらゆる現場で全く同じ。
チェルノブイリ原発事故 子供たちの甲状腺癌の手術台に上った写真。
甲状腺は事故と関係ないと云っていたが、事故が起こってからいろんな異変が始まっている。
4から5年にかけてから何十人という単位に膨れ上がる。

その直前ぐらいから取材に行っていたが、なかなか事故との因果関係を認めないで、それをようやく認めるまでに10年間掛かった。
甲状腺癌は初期のころならば直るチャンスがあるが、スクリーニングができなくて逃してしまうと転移をしてしまう。  
身体のいろんなところに転移してゆき、最後には脳に転移して、救いようがなくなってしまう。
11歳の女の子、大丈夫だと云っていたが、急に手術が決まって、両親が来られない状況の中で一人でベッドに横になって、麻酔が始まると云う時にわんわんと泣いて、自分は麻酔を受けている間にこのまま死んでしまうのではないかと思い、唯私は何もできなくて、其女の子の手を握ってあげるだけだった。
幸い其女の子は初期だったので転移しないですんだ。
手術を見届けて、我々の作った保養所のところに甲状腺の手術をした人達も引き受けよう、医療の関係、早期発見の測定機、車両、医者の給与など日本のお金でやるからと言って、甲状腺の手術をした子供達が大量に保養所に入ると云う事がスタートしてゆく。

再発が怖い。 子供達は首の手術後を隠したりする。 水泳の授業は受けない、引きこもる、そうすると身体が弱くなり、免疫力がなくなるので、再発の可能性が増えることになる。
子供達に一番大事なことは生きる気力、そのためには保養所は役に立ってゆく、。
救援のために取材をする。 助けを訴えるためには写真が必要、撮ってもいいですかと、本人の了解を得て、撮って報道を繰り返してゆく。
チェルノブイリの時は報道と救援が切り離せない様になっていた。
手術をうけた女の子は、その後風の便りに結婚すると云いう話を聞いて、驚かしてやろうと結婚式場に行って、おめでとう、覚えているかと言ったら、吃驚して抱きついてきて、あの時手を握ってくれた、あったかい手をおぼえているとの事だった。
その後赤ちゃんを産んだと聞いている。

去年沖縄、久米島に沖縄くみの里 保養プロジェクトを立ち上げる。
全て支援金を募って、子供達は航空運賃を含めて無償で滞在できる形。
季節に依るが10日間  24日間  未就業児は母親と一緒
今までに合計で700何十人滞在している。
ここではいろいろなことを経験する。 
砂浜で歩いていたら泣き始めた子がいたが、聞いてみると、放射能が足につくと思って泣いていたが、説明してやると、段々と理解して最後には砂浜に自分の手を押しつけて記念にしたと云う光景を観た。
月に半分ぐらいは行っている。   

チェルノブイリでは写真を教えて、写真の撮り方を教えた。 ジャーナリスト教室を開く。
ジャーナリストとは何か、と問うた。
幸せに、健康に生きる権利 自分たちの生きる権利を守るためには、いろんな方法を考えている。
選挙、法律を作る、其為に自分たちの代表を選んだりするが、権力を持つと本当に守ってくれるかどうかわからないので、戦争に向かおうしているのか、平和に向かおうとしているのか、被害に及ぼすような工場、企業に味方して、そのことを黙っていようとするのか、判らなないから、生きる権利を全うするのには、知る権利を持たないといけない、知る権利を全うするためにはなかなか難しいので、ジャーナリストと言う仕事がある。
ジャーナリストは外人、大統領だろうが対等に話して、駄目だと云っても要求する権利がある。
知る権利がある。 だから現場で対等に話をする。
人間の生きる権利と一つに全くつながった仕事がジャーナリストだと云った。

ジャーナリストの仕事も 目の前で悲鳴を上げている人を助ける義務はある。
シャッターを切れない事もいっぱいある。 
むざむざと子供が殺されてゆく、難民キャンプでもそうだったし、甲状腺がんの子もそうだし、許せない、止める力は小さなものしかないが。
今年70歳  これからは? 「DAYS JAPAN」編集長の座を退き、別の人に譲る(保養所とかいろいろあって不可能)
一つ何を残すのかと言われれば、一人のジャーナリストに戻りたいと思います。
現場に立つと云う事に誇りを持つ人間なので、もう一回戻りたいと思います。