山崎 十三(漫画原作者) 72歳で映画監督への挑戦
1979年から連載された漫画釣りバカ日誌の原作者として知られ、映画でも大ヒットしました
72歳になってご自身の原作、「朝、昼、晩」の映画監督としてデビューしました
内容は甲子園出場までもう一歩だった3人の元高校球児、朝本、昼川、晩藤の名前を取って「朝昼晩」をタイトルにしました
その3人の30年後の話で宮崎を舞台にひと騒動すると云う話です
もともと山崎さんは大学卒業後、助監督として仕事をしていましたが、労働争議が原因で映画会社を辞めていた頃、大学の頃の友人がに映画界で脚本等を書いていたのなら、漫画も書けるだろうと誘われて、漫画原作者に転身したと云う事です
助監督だったころは今回のような本格的な映画の仕事はしていなかったと云う事です
72歳で映画監督としてメガホンを取った漫画原作者、山崎さんに伺います
1982年に漫画賞を受賞 サラリーマンの国民的漫画と言われるようになった
映画は終わってしまったが、漫画は続いている
社長と浜ちゃんの知られない関係がとっても面白くてわくわくさせられた
釣りの世界では師匠と一人の初心者 他にも漫画の原作をやっている
「朝昼晩」 意外と女性ファンが面白いと云ってくれていてます
人情コメディーほのぼのとしている
当時の野球の監督の娘でマネージャーだった人が病気になった見舞いに行くところから始まる
いろんな楽しい話題が始まる
助監督は40年前なので、タイムラグはある 当時はフィルムだったので出来るだけ節約して余分なところがないようなやり方をやっていたので、つい癖が出て悪い意味でのタイムラグがあった
俳優、スタッフのおかげで、思いのこもった作品にできあがったと思う
喜劇をやってきたので、笑いをメインに撮ろうと思っていたが人情も泣きもたっぷりあるハートフルな作品に出来あがったと思います
宮崎弁で宮崎の人も多く出演してもらった 1300人エキストラとして来ていただいて感動した
私も中学から野球をやっていて、県大会で優勝して、乞われて大宮高校に行ったが、高校2年の時に腰を痛めてしまい、野球を辞めざるを得ず、挫折を味わった
映画の3人の場合は決勝で敗れると云う挫折を味わうが、似たような感じ
私の自伝的なことも含んで織り込んでいるつもりです
映画の出演者は板尾 創路、國村 隼、山寺 宏一 3人
本当の年齢とは差があるが、でもそこが面白い
3人組が宮崎の風景の中を旅するがその中で、かつての友情がよみがえって、監督とも対決してゆく中で、人生半ばで迷ったり、疲れたりしていた3人が、もう一度元気になって、もう一度やってやるかという事がテーマになっているので、3人のチームワークが復活して、見事に集合して鬼監督に立ち向かって行くようにしたかった
元気になってゆく背景として故郷、風景が是非必要とした
西田敏行さんが元監督役
昭和16年生まれ 小学校3年までは都城の更に田舎に住んでいた
ひもじい思いはしていた(終戦が4歳) 貧しい生活だったが笑いが絶えない家だった
宮崎県だけれども旧薩摩藩の影響を受けていた
高校は大宮高校 正月の3日とお盆の3日以外「」は野球一色だった
腰を痛めて野球から離れて、ショックだったし、受験が控えていて、肺浸潤で2カ月入院したりして、1年遅れてもいいと思ってのんびりとした
1浪して早稲田大学に入った 新しい映画に出会って、映画っていいなあと思った
演劇科に入る 当時映画はもう斜陽のときで、父からは猛反対された
卒業しても就職先が厳しくて大手映画会社は駄目で、助監督として、TV映画を製作しているところでやることになった
監督の補佐だが、昼になっても演技の下手な女優がいて時間が伸びてきて、演技指導を私がして一旦落着、その後その女優の先ほどの演技の電話内容をたまたま聞こえて、「助監ががたがたぬかしゃーがって」・・・ 少しは尊敬してくれていたと思っていたが、愕然とした
朝から晩まで働いて、安いわけですし、やめても補充がきく
キーハンターの仕事が来て、組合の仕事で争議が発生した 監督の話も立ち消えになって、
3年後に和解するが、戻った人が半分、辞める人が半分
自分もここで判断しようと辞め、収入が無くなるので、仲間3人でうどんを売って生活していた
大学の友人、武井氏が漫画の原作を書いてみないかと、声をかけてきてくれた
それから40年経ってから映画を撮る事になる
原作を始めたころは、映画を撮ることと、漫画の原作をやることと、二足のわらじはそんなに甘いものではないと言われた
自分の中では映画とは一切縁を切ったと、この話が来るまで思っていた
短編の話があり、短編をやったのでその流れの中で、今回の映画を引き受ける事になった
今は次の事を考える余裕はない もし次と言う事であれば初夢として取っておきたい