宗次 徳二(NPO法人イエローエンジェル理事長) カレーハウスから立ち上げた音楽の夢
宗次さんは6年前名古屋市の中心部栄に、私財を投じてクラシック音楽専門の宗次ホールを建設しました
出来るだけ多くの人に、クラシックを楽しんでもらいたいと低料金で年に400回コンサートを開いています その一方で若手の音楽家に発表の機会を与え、貯蔵するストラディバリウスの名器などを無償で、貸与する活動にも力を入れてきました
宗次さんは児童養護施設で、両親の顔も知らずに、育ちましたました
幼い時、養父母に引き取られますが、貧乏のどん底の暮らしを味わいます
高校を卒業して、一旦は会社に勤めますが、25歳で独立して、喫茶店を開業します
職場で結ばれた、妻の作るカレーが好評だったことから、カレー専門のチェーン店をはじめ、
それが成功して次々に店舗を増やしてゆきます
宗次さんのカレーハウスは、1300店と世界最大のチェーン店にまで発展します
しかし宗次さんは11年前53歳で事業から引退、余生を社会奉仕活動に専念する事を決意します
NPO法人イエローエンジェルを設立します カレーハウスでの収益をクラッシック音楽の振興に注ぎ込み、夢と目標を持って努力している人に援助の手を差し伸べる、宗次さんに活動と波乱の人生を語ってもらいます
客席が310席 天井の高さ 16m 響きが良くて心地よい ヨーロッパの大きな教会で弾いているようだといわれる
2007年3月にオープンする 自分の私財を投じて作る
ランチタイム名曲コンサートが先ほど終了して、満席の盛況だった
室内楽、リサイタルが主になる
ランチタイムは、基本的に聞き覚えのある曲を中心に組んでいる
私は、おもに企画をやっている
ランチタイム名曲コンサートは781回になる 圧倒的におおい 18回前後が月間に組む
夜を含めると、今年は年間400回になる
若手を中心に幅広い方々に機会を提供する
お客様に依り親しみを持って、クラシックを愛好していただきたい
この二つが目的であって、一回でもコンサートを多くしたいと思った
近所に有名なホテルがあり、レストランもあり、提携してコンサートをやっている
低料金で食事をしていただいて、音楽鑑賞をしてもらうが、凄く好評です
尼崎の児童養護施設にいた 実の親の顔を知らない 写真もない
3歳の時に宗次家に養子に入る 昭和23年生まれ
父親が、引き取ってくれたときは、資産家だった
不遇の始まり 養父がギャンブルにはまる 競輪 商売そっちのけで、すぐに破産する
夜逃げで岡山県に移り住む 5歳の時
母親に手を引かれて歩いていたのが、私の記憶のスタートだった
その何日後かに、畑の中で父親から棒で一杯叩かれていて、夫婦けんかで、その日を境に母親がいなくなって、父親と暮らすようになるのですが、超極貧の生活でした
父親が仕事をしない 日雇いには行くが、200円 300円 貰って50円は生活費に使って残りは競輪に出かけて、始終行っていた
父は隣近所の人とは始終取っ組み合いのけんかをしていた
一回は警察沙汰になり、2日間帰ってこなかった 小学校に上がるかどうかの時だった
電気はずーっと切られた状態で、明かりはろうそくの生活 父親がいないとろうそくはつけてもらえなかったので、真っ暗な生活だった まわりも関心が無かった
米を一升枡で量り売り 月に2回ぐらい おかずは無し 醤油をかけて食べる 花かつおとか
ご飯が無い時は道端の草を食べたり、果物などを頂いて食べたり、食べる事にも事欠いていた
小学校 クラスの女の子のお母さんが遠足、運動会には何回かは弁当を作ってくれた
小学校の3年生になる時に、名古屋に母がいることが解り、名古屋に行った
長屋式のおんぼろの家だった 4畳半一間
ギャンブルは治らず、母親はすぐに出て行ってしまった
父親はタバコを吸うが、お金が無いので、パチンコ屋に私が行ってタバコの吸い殻を拾ってきた
遊びに夢中になっていて、タバコの吸い殻を拾ってこなかったら、ほうきの棒のほうで、全裸にさせられて、叩かれいくら泣き叫んでも駄目でしたが、近所の人はだれも止めに入らなかった
唯一の家族なので好きは好きでした 自転車に乗ってたまに銭湯に連れて行ってもらった
月に一回ぐらいではあったが、歯磨き粉が無く、指で塩をつけて、人差し指でみがいていた
食べ物が無かったので、虫歯もなかった
中学3年の時に、父親にがんが見つかって、3月に入院、7月に亡くなりました
入院と相前後して、母親が来てくれrて、母親との同居になった
賄い婦だったので、余ったものを持って帰れるので、一気に食生活は良くなった
高校は行きたくは無かった とにかく仕事をして給料をもらいたかった
先生からすすめられるままに、試験を受けて合格する
戸籍謄本を見たら、聞かされていた誕生日が違っていたし、名前も違っていた
5歳の時、ギャンブルで縁起が悪いから変えたのだといわれて妙に納得する
実際の父母がいるという事は、今の父母は養父母だという事は確信を持った
ショックは無かった あまり深く考えない性格だったのかも
高校では電気がついた TVを譲ってもらって、テープレコーダーを1000円の月賦で譲り受けて
録音した
たまたまNHK交響楽団の録音をした 岩城 宏之先生がちょうど売り出したころ
毎週見るようになった 録音したものを翌日の朝、再生ボタンを押したら、その流れてきた音楽が私のきんせんに触れた
メンデルスゾーンの3大ヴァイオリンコンチェルト の一つと言われる ヴァイオリンコンチェルトホ短調
名旋律が自分の心にスーッと入った それ以来毎週聞くようになった
長年やってきた食堂業の経営者時代は一切聞いていないが、引退する直前に、飛行機の機内放送でパヴァロッティ 3大テノール歌手 オペラ アリア集を聞いて、よみがえってしまい、全曲聴いてみたと思い、CDを段ボール単位で購入して、全部聞きました
卒業後、就職先が不動産取引の会社で3年間勤めて、取引のノウハウを覚える
建築の勉強をしようと思って、建築会社に入った
そこで奥さんと、であった 2年後に結婚する (24歳)
不動産業で免許を頂いて、不動産業をやっていたが、安定はしないので、或る日喫茶店でもやろうかと言ったら、やろうという事になり、喫茶店をやるようになる(昭和49年 25歳 妻24歳)
名古屋の喫茶店はモーニングサービスが有名(当時はシンプルなもの)
サービスで来ていただいても嬉しくないよと言う事で、モーニングサービス無しで押し通した
「お客様笑顔で迎え、心で拍手」
最初は厳しい自転車操業だったが、一所懸命やるうちに、繁盛するようになる
売上を伸ばすには、出前をやろうと思っていたら、カレーが美味しいのでそれを提供しようという事になる それが評判になり 、次の店はカレーにしようとすぐに決まった
口コミで来てくれる事が嬉しかった
昭和53年の1月17日に カレーの一番屋を出した カレーの専門店 「CoCo壱番屋」
目標を持って常に持って、目標を追い続ける 1日6万円の日商になったら、2号店を出そうという目標を持つ 翌年(昭和54年) 2号店 3号店を出して 年末に4号店、喫茶店は処分する
12月に引っ越しして、70万円不足していて、信用金庫に100万円借りる
70万円 は給料支払い、支払いに充てて、20万円これからお世話になる地元の社会福祉協議会に10万円寄付 もう10万円は1号店でお世話になった町役場に寄付、残った10万円で年を越す
あんな状況で20万円寄付することが、良くできたねといつも話題になる
感謝ですね、健康で商売させていただいて、、家も新築して、もっと恵まれない人もいるので、使っていただこうというそういう事って段々膨らんでくる 歳を取って
率先垂範を貫こうと、現場主義を貫こうと、お客様第一主義でやろうと この3つをかたくなにやり通した 社業も段々発展してきた
各店舗にアンケート用紙を置いて、それを必ず目を通した(1日も例外もなく)
価値があるのは「おしかり」 無視されたり、オーダーしたのに忘れられたり、私語にふけっていたり、後から来た人のものばかりでたり、いろいろある
コンサルタントの先生に指導してもらった事は一度もない
加盟店さんにも利益を上げ続けていただく、お客さんには喜びを感じていただく、それをやり続ければだれがやってもうまくいくのではないかと思う 国内は1250店舗 海外を入れ1300以上
海外はハワイ(私の時代) 今の社長になって12年、韓国、タイ、台湾、中国 シンガポール 香港
53歳で100%事業から退く お金を頂いて、一時預かりにしようと思って、一生懸命やる人、生活に困っている人、にいろいろな援助しようという事になる(イエローエンジェル)