2013年7月24日水曜日

大河内祥晴           ・「いじめ自殺」を無くしたい

大河内祥晴    「いじめ自殺」を無くしたい
19年前 二男の清輝君をいじめを苦にした自殺で失いました
大河内さんは何故我が子の苦しみに気付けなかったのかと悩み、そのうえで何があったのかと本当のことを知りたいと思い続けてきました
そんな大河内さんの支えになったのは、清輝君と同じようにいじめに悩む心のふれあいでした
息子を失うという経験の後、大河内さんは、どのような思いで日々を過ごしていたのか、伺いました

清輝君が亡なったのは19年前の11月27日   思いだすのは亡くなる前の、どんなこといったのかとか、自分と愛する、くやみきれないもの、こうしてやれば助けてあげられたのかも、本当のことを話してくれたかもしれないなあとの想いは、亡くなった直後、19年経ても変わらない
一番強く思うのは、彼にとってはお金についてですかね
だから遺書の中でも自分が渡してしまったからということで、自分を責める事しか多分亡くなるまで彼の頭には無かったのかと思う
亡くなる前の晩に、無くなったお金がわかってて、その時はじめて自分が取ったのと、ゲームセンターで使ったと言ってくれた
それに対して、私がとった態度は、おまえは駄目になってしまうと、彼を叱ってしまった

翌朝冷静に考えると、そんなお金をゲームセンターで使ったと言っていたけれど、使えない
おかしいと思いがあったが、どうしても片付けないといけない仕事があり、出かけたが 日が暮れるのが早く、出かける際に、私に気がついてほしくて「いつ帰ってくるの?」との問いかけがあったんだと思う
お父さん昨日叱ったんだけど、やはりおかしいと思っていると彼に伝えたら、遺書に残している様な内容を自分の言葉で話してもらえたのではないかと思いが、今もある

遺書によると、主に4人の同級生からいじめられたり、お金を要求されたりしていて、合わせて100万円以上のお金を渡していたと書いていた
額がそのぐらいにいっていたと言う事は、私たちのお金の管理も結果として、彼を苦しめることになってしまった
必死でお金を集めた 
祖母のお金が無くなる事が多かった(勘違いではないかとの思いもあった)
おかしいとは思いながら実感として捉えきれなかった
解るきっかけになったのは、亡くなる前の夜 叱責したり、最後は足でけったりもした
当人は悪いことだと思ってただけに、そういう風な態度をとってしまったことに彼に申し訳ないと思った(かれの口から話し出す機会をためらわしてしまったのかと思う)

夜帰ってきていないので、どこへ行ったのかと言う事で、近くを探しまわったが、最後は自分の家の敷地の中 柿の木で彼を見つけたときには、彼がそういう状態にあるということ事態に、対して自分自身が受け入れないというか、言葉と言うのは、どうしたんだという言葉だけで、後は涙ばかりだった
何故っと言う言葉ばかりで他に何も浮かばなかった

自転車がへこんでたりだとか、服が汚れて泥がついていたり、かばんが無くなったので、探しに行ってくるだとか、夜友達のところに言ってくると言って、出かけていったこともあるし、おかしいという事はいっぱいあった
何故この道しか選ばなかったのかと、大きな理由があると思った
何があったのかは自分が調べるしかないと思った
葬式後、例の言葉は言うのですが、何があったのかと言う事を、どんなことがあっても調べると、親の責任としてそれだけは絶対やらなくてはいけないと、言葉にしていった
彼は言わなくてはいけないと思いながらも口に出せなかった
遺書の中にこんなことがあったと、自分の言葉ではないが、自分の想いを紙に残してくれた
遺書を読んだときに、そういう想いしかなかった

遺書 公開してもいいと思った 亡くなって以降 毎晩弔問に来てくれて、何があったのかと言う事を毎晩先生に質問する、先生が子供たちに何があったのかを作文に書いてもらったりするが、そのことを知りたいし、当時の中学校はいろんなことがあったりして、そういう情報も入ってくるので、いろんな事があったんだろうなあと、概要が見えてきたので、先生にお聞きするが、調べていますということだった
私が遺書の内容から感じたことは、これは事件だと言う事で、事件として扱いますよと、そんな話はした 
校長先生が飛んできて、遺書を読んだ そのあと記者が見えて、たまたま記者にもこんなことであると遺書を見せた
記者の方から公にしたいとの打診があって、親戚が集まって相談したが、学校の先生方の対応を見ていると、おそらく何があったのか分からないだろうと、それをはっきりさせるために報道にも、報道に乗せて知ってもらった方がいいのではないだろうかと、結論を出して、12月2日の朝刊に乗せてもらった

公にするのはいいのか、悪いか いろんな見方はあるが、公にしてもらってよかったと思う
配慮が足りなかったと思うのは、報道が過激になって、同級生に対しては凄く迷惑をかけたと思う
例えば、お金をポケットに突っ込んで、学校でお金をもらっているのに、なんで本当の事を言わないんだと学校で脅しに近い恰好で、子供たちに語らせようとするというようなこともあったという
そういう面では配慮が足りなかったと思う
公表して、よかったなあという気はある、学校の対応は変わったなあと凄く感じた
事実が大分見えてくるようになった
遺書の中には4人の事は書いてなかった

旅日記 大学ノートに書いてあった 家族と一緒に遊んだことだとか、楽しい思い出をノートに書き留めてあった
どんな気持ちでつらさを少しでも追いやるために、楽しさを思いだすことによって、自分自身が生きてゆく力を持っていたのかも
最後にお金を取った子と言う事で、4人の子の名前が書いてあった
学校の中では或る程度、どういう状態かはつかんでいたとは思うんですが、新聞で報道された夜に、4人の子と父母とが来てくれた
事前に学校で書いた短い文の反省文を持って、校長が言われたのは、大河内さんに全てあったことを正直に話しなさいと4人の前で言ってくれた
反省文は内容のあるものではなかったが、何があったのかと言う事を毎週書いて持ってきてくれと4人に対して言った
1か月半にわたって毎週書いてきた 本当に子供たちがここまで出来るのだろうかと、そしてされている清輝はどう思っていたのかと考えると、彼らがやっている行為よりも、清輝の想いを自分の頭の中で描くことは非常につらかった
自分自身の感情を抑えながら、やっぱり絶対に全てを知らなければ、自分を許せないと思った

1月に一人の子が手紙をくれたが、清輝に対する自分がやっていたことに、気がつくというんですか、そういう想いを書いてくれると同時に、両親から隠していることはないかと責められるが、一つだけ他の3人から絶対言ってはいけないといわれていることがある、これだけは言っておかなくてはいけないという、そういう手紙をくれた
これで子供たち聞くのはやめようかなあと思った
彼ら自身、最初は遊びだったと思うが、遊びの範囲を越えて行ってしまう、大人と同じように遊びを越えた犯罪行為になっているんだという事に、彼ら自身に気付かせてやれなかったという、それは清輝を助けられなかったと、思うと同時に、そのことをその子たちに気付かせてやれなかった、そういう機会はあったと思う

それは一番私たち大人、周りの大人、親が、あるいは一番考えてほしいのは学校教師だと思っているが、それが一番考えてほしかったことの一つですし、それが自分の子供が亡くなってから
20年近くたっても、あまり変わってないのは情けないというのか、悲しいと思っている
新聞で報道されて1週間の間に、福井県中学2年生、岡崎市 二人が亡くなって、清輝がどんな思いでいたのかなあと、頭で考えるようになると、多分同じような思いで命を絶つ子がいるという事に耐えられない、というんですかね
あったこともない顔を知らない子たちですが、その子たちの思い、苦しみは清輝と同じだろうなと、そんな中で、悲しさ苦しさ その子たちに対してどんなふうに受け留めてくれるか解らないが、自分たちの今の想いを伝えようというのは、自然にわいてきたというか、メッセージを出してもらった

「清輝と同じように人に言えない苦しみを持つ子供たちへ」と言う事で
一つは清輝に対する思い 自分のなかでどうしても解らないないことは、なぜ 話してくれなかったのかなあと 親として話すことが出来ない親であったのかなあと もし清輝に替って教えてくれる子がいたら、それは聞いておかないと自分として、納得ができないところがあった
何故話をしないのか、教えてほしいとの事に対して、報道各紙に掲載してもらって、それから驚くような手紙が全国から寄せられて(1000通ぐらい) 沢山の子供たちから自分がうけているいじめの内容だとか、その時の自分の気持ちを教えてもらった
自分が考えている以上のことが一杯あった(いじめの行為だとか)
一番衝撃だったのは、こんなに沢山の子が同じようなことをされているんだという事が衝撃だった
自分自身がもっと何が起こっているのかと言う事を亡くなる前に調べる手立てがあったんだなあと、その子たちから教えてもらったですね
子供たちとのやり取りが、ほとんどの時間費やすようになった
夏休みに家に訪ねてくるような子もいた  一週間ぐらい遊びに来てくれた子もいた
つらさを表に出さず、接してくれた
数年前に妻が言ったが、本当にこの子たちがいなかったら、私たちどうなっていたのか、解らなかったねと言う事を彼女が言った
振りかってってみると、何があったのか解るにつれて、自分たち自身が親として足りなかったことがいっぱい出てくる

自分が一人になった時に、どうしたらいいかわからなくて、車の中で動けなくなったこともあったし、夜になって星空しか見ることができない自分もいましたし、でもその子たち、訪ねてくる子、電話や手紙のやり取りをして、その子たちに私等自身が清輝のことを想い胸に秘めながら、なんとか命をつないでいくというんですか、そういう力を与えてもらったなあと言う気がする
毎年命日 同級生が来てくれる
言葉で貰うんじゃなくて、、彼らの態度の中から段々解ってくるって言うんですかね
私自身は清輝の仲間として、清輝はいないんですが、今の近況とか、世間の一般的な話をすることが多かった

今は、あの時清輝はこう思ってたよなと、いうのはなかなか本当に何度でも繰り返してきて、彼に語りかけるのは、同じような悲しい事件が起こった時に、わかんないね、 お父さんいろんなところで話していつが、役にたたないのかねとかですね、本当に先にいろんな出会いがあると言いましたが、本当に思うのは、彼自身が、父さん母さん どう思うのかなあと思ったときに、多分清輝自身がいろんな子たちとの出会いを作るためのものを、いろんな形で残してくれたと思う
そう彼に語りかけている
いろんな子たちの声、清輝の想いを上手く伝えるように、力を貸してよと、いう今日来る前にそんな言葉を掛けてきた

命を絶つ子は、いろんな思いの中で、いろんな積み重ねの中で、命を絶った事だけは、私自身が一番受け止めなくてはいけない事かと、思っている
他の子も同じだという事をもっともっと、社会全体が受け止めて欲しい
正直言って、清輝が亡くなって19年になってしまって、だからそれぞれのそういう機会をもらった場合に子供たちに、自分の想い、清輝の想い、全国で苦しんでいる子供たちの想いを、なんで19年もたって、伝え続けなければいけないのかと、忸怩たる思いがあるが、そういう事を気付いてもらうためには、機会があれば、子供たちに沢山の子供たちの叫び、辛さを伝えなければいけないのかなと言う気がしている

いろんな面で子供と、話す機会、自分の持っていることを子供につたえると言う、それが多分いろんなところで、いろんな時に 沢山ああるのではないかと言う気がしている
しんどかった、辛かったというよりも、私たちとの出会い、私たちにとっても子供たちとの出会い、それを大切にしながら、少しでも元気を取り戻しながら、という子の子たちの想いが伝わってくるんですよね、それを凄く私たち自身も共感できることがあるし、ちょっと心の中にほっとする
大変なんだけど、この子たちの辛い中でも、その言葉、声、文字を見るだけで、自分たち自身がちょっとほほ笑むことができるというんでしょうか
歳が何十歳離れているこういう子たちであっても、一人の子の子たちとの出会いは、凄く、如何に大事なものであるかと言う事に、19年間自分自身が気付かされた一番大きなものだという気がしている
私自身が信じあえる大切さを本当に気付かされた
今日がだめで有れば、明日、明後日 また次の歩みをしていこうかなと思っている