2013年7月31日水曜日

惣万佳代子(デーサービス代表)     ・富山から福祉を変え続けて20年 2

惣万佳代子(デーサービスこの指とまれ代表)     富山から福祉を変え続けて20年 2
この指とまれは赤ちゃんからお年寄りまで,一緒に支えたいと、全く知らない福祉の世界に飛び込みました
当時、同僚たちは夢のようなことをしていると3人の行動を危ぶんでみていたといいます
公的支援もなく、経営は苦しかったのですが、熱い思いを持ち続け、8年後にやっとNPO法人になることができ、富山県からの補助を受けられるよう成りました
10年後には惣万さんたちが始めた日本初のデーケア方式は、国が認めるところとなり、富山型デーケアサービスとして、今では全国に1060か所あまりに、広がっています
次なる夢をどのようにしてどのようにして、実現させていったのか伺います

自立支援法で障害者も受け入れていいという事になったので、優秀なスタッフも増えたし、経営的に安定した
2003年 富山型デーケアサービス 特区地として認められた
縦割り行政を無視して、赤ちゃんからお年寄りまでを世話することをやったことが、時代がついてきた(国が認めた)
私たちの活動を続けてきたことが、変えることの原動力になったと思う
西村さん(後輩)と2人3脚でやってきた(一人は事情で辞めた)
障害者、知的障害者を含めてショートステイ 特区で提出したが、不合格だったが、特区申請を再提出したら、今度は特区を通りこして、指定になった
身近に精神、知的な方が泊れるようになった

必要な時に必要なサービスをする  一昨年統計では全国では 1006事業所ある
今年はかなり多くなっているのではないかと想像している
東日本被災地でも、共生型施設 誰もが身近なところで赤ちゃんからお年寄りまで集まって、そこにショートステイができればいいのではないかと、あんまり大きな施設はいらないのではないかと、国は一件につき、5000万円の補助を出せばいいのではないかと、被災地に対して行えばいいのではないかと言っている
私たちの施設ではお年寄りは骨折の事故はない (下が床か畳で柔らかい  他のデーサービスではセメントで硬い)
狭いので目も届く

家族みたいな環境である 
ぱっと見たときに誰が利用者か、誰が職員か、ボランティアかわからない
1993年に開始、10年後に全国区になり、一つの目標がおわって、次に取り組みは B型就労
A型は2年後に一般就労を目指す B型は長い目で見たら、一般就労を目指すが、通ってそこで働く
この指とまれに 19年 15年と努めている人がいるが、作業所は作業所で作業するのが、作業場なので、介護の預かっているところで作業しているのは、作業所でない
作業所に派遣している事となるので、認められなかった
10年経って、県が困ってる事は無いかと、と問われたときに、この件は10年前には駄目だったといわれたが、このような形で知的障害の方が5人就労していた
この人たちにちいさな作業所として認められないのかと、県が国に言ったら、、5,6人は駄目だと
20人を目指せと言われたが、それは無理だといった

小規模 60数か所に障害者が働いているので、そこで働いている人を合わせて、20人を目標に出来ないかと言う考えになって、それならばできると、施設内就労と言う事になった
管理は「この指とまれ」  協力金を出してもらえる B型就労一人につき、5800円出る
施設内就労は+1000円  一人につき国から6800円もらえることになる
今までは大きな土地、建物を用意して、パン、ケーキ作ったりするのに、維持費が必要だが、初期投資をしなくてもいい(デーケアサービスで働くので)

一番素晴らしいなと思うのは、いろんな人たちとしゃべることができる、役に立つ仕事内容なので他に移っても、対応ができる
大塚さんは中学から高校まで、この施設の利用者だったが、この施設に働きたいとの願いで働くようになった
中村さんは会社に務めたが、会社から来なくてもいいと言われてしまい、明日からこの指とまれに働かしてほしいと、首にしないでくれと言われた
中村さんを絶賛する人もいる B型就労

県も進めているが、養護学校を卒業するとケーキ屋、ラーメン屋で働きたいとかいろいろあり、選択肢が多いほうがいいと思うが、今は介護の仲間でやっているが、やがてそういう働く人、花屋、ケーキ屋さんで働く仲間と手を組んで、仲間になって 20人ほどの仲間を作っていこうと思っている
若年性認知症の方 63歳元市役所 59歳の方は学校の先生が認知症になった人の発表
私たちは老人デーサービスに行っても合わない 塗り絵をさせられたりして、能力が少し残ってるので働きたいと言っている
B型就労の一人として、派遣しているような形態をとれないかと、介護保険では無理かもしれないけど 、何かできないかと言っていた

根底にあるのは、困っている人がいる、そして何とかできないのかなと、頭を働かしたり、実践したりして、どうしたらいいのか、制度の活用、うちからお金を出して動いて、そのうちに国が認めてくれるのではないかと、制度は後から付いてくるんじゃないのかなと、先ずは実践、活動だと思います
現場にはいろんなヒントがある(現場が良い)
初め、行政は敵だと思っていたが、今は違う 行政も民間の力が必要なんですよ
行政マンと20年付き合ってきたが、頭はいいが、頭が硬い、発想が無い、柔軟性が無い
発想と柔軟性、行動力があるのは民間のよさだと思う
それを法律、条例を変えたりして、継続して、力をつけて、後ろから押してくれるのが行政の仕事だと今は思う

富山県 住みやすい 幸せ度は福井県から2番目
死にがいのある街作り  富山で死んでもいいという、だから皆で支えあって、生きていこうという思い 現在富山県は90数か所あるが、200か所作ろうと目標をしてしている
ちいさな施設が良いと思っている
寺は1000人、2000人に一か所ある 拠点としていた  寺の数だけ有ればいいなあと思う
寺が共生のデーサービスとか、誰もが集まる拠点、原点に返って、皆が集まれる場所になって行ったら、支えたり支えられたりする、お互いさまの社会が生まれてくるのではないかと思う
死に甲斐のある は 生き甲斐のあるに通じる

一つの区切りは65歳だと思っている(あと3年) そこでまた考えようと思っている
その人らしい生き方、その人らしい死に方を支えることが「この指とまれ」の使命だと思っている
結局人間はいつかは死ぬので、よりよく生きてほしいし、その人らしい死に方で死んでいってほしいと思っている
ブータンが幸せ度 96% でも生活は貧しい 日本みたいに、医療保険、年金、介護保険もないところが幸せだと言っている
日本は3つも持っているのに、幸せとは言わない
何が足りないかと言うと、根本的な温かさ、気持ち、ぬくもり、お互いさま、支えあいが無くなってきたのではないかと、思う
どうしたらいいのか解らないが、私たちは小さな事の積み重ねしかできないが、「この指とまれ」がずーっと続いて、引退しても若い人たちにこの精神と活動を引き継いでいってほしいと思います