2013年7月6日土曜日

鎌田道隆(名誉教授)       ・お伊勢参りが育んだもの

鎌田道隆(名誉教授69歳)      お伊勢参りが育んだもの
奈良大学の学長を務めた後、退官 現在は奈良大学名誉教授 専門は歴史学
書物を読むだけでは、江戸時代の人たちの暮らしや思いはわからないと実験歴史学を提唱
実際に学生と一緒に歩く、現代版お伊勢参りを25年間にわたって行いました
そうした体験を通して、お伊勢参りの旅が日本人の心をはぐくんだ事が分かったといいます
伊勢神宮は今年 20年に一度社殿を作りかえる、式年遷宮の年を迎えています
この機会に何故江戸時代にお伊勢参りが盛んになったのか、又数十年に一度爆発的なブームになったおかげ参り 家や奉公先から突然いなくなって、伊勢参りに向かうぬけ参りとは何だったのか 伊勢参りは何をはぐくんだのか をおききしました

伊勢神宮は皇室の精神を祭っていると言う事で 天照大神を祭っていて 内宮と呼んでいる  
もうひとつ外宮がありまして、伊勢神宮にありまして、天照大神がお祭りされているが、身の回りの食べ物とかをお助けする神様を、是非近くに呼びたいという事で、それを豊受大神宮と言うのが呼ばれてきて、それが外宮になる
外宮は産業の神様、農業の神様、とかと言う事で庶民的な産業の神様なので、お参りに皆さんが出かけた
内宮は日本の国家の天皇家の祖先神と言う事で、神社のなかでも日本の総氏神的ないちばん最高の位にある神様という位置付けは、江戸時代に出来ている 全国の神社の総廟と言う

お伊勢参り 古代には伊勢神宮は国の神社として、国庫で営まれていたが、古代国家が解体してゆき、財政規模が無くなってきて、鎌倉、室町時代になってくると武士の社会で武士が戦いの場で私たちが勝ちますようにと、戦勝祈願をしてお祈りする、その代わりに荘園を与えたり、お米を出したりして、それが伊勢神宮の財政基盤になっていったという事で、最初は戦いをする武士であるとか、地方の豪族とか、そういう人たちがお参りに出かけていたという記録が、中世にある
伊勢神宮にお参りに行く間に、沢山の関所を通っていった そのたびにお金を払った
京都のお公家さんもお伊勢参りに行った 上流の人々がお伊勢参りにいった
江戸時代に入ると、前の時代にくらべると、庶民の経済生活が非常に豊かになってくる 戦争が無くなる、人口が増えてくる、人口を支える生産性が上がってないと人口は増えないので、急に人口も増えてくるし、生活レベルはアップしてくる

そうすると、庶民自身もただ働いて、ご飯を食べて寝るだけではなくて、芝居を見たり、本を読んだり、旅行に出たりとか、様々な喜びを人生の中に取り入れてくる
その一つの魅力が旅行になる  一般の人々が精神的にも旅を好むようになる
江戸幕府が街道とか、宿場、宿駅、橋とか並木とか 街道施設を整備してゆくので、安心して旅が出来るようになる
美味しいものを食べたり、地方の行事などを見たり、地域社会の見聞も兼ねながら、旅に出かける
信仰の旅、本山参り、神社への信仰、健康、病気療養(温泉巡り、温泉治療)と言う事で出かけてゆく   
信仰と病気療養は庶民でも許される(庶民も動きやすくなる)
庶民はなかか余分な金が無いので、自分たちで田んぼを耕して、そこからとれた米をお金に変えて旅費にする  伊勢にゆく田んぼと言う事で「伊勢田」と呼ぶ
伊勢講のためのお金をねん出するための田んぼ 田んぼだけではなくて、皆さんで毎月お金をためて行って、その中から今年は何人かの村の代表はいいよとか、と言うようなことで、豊作の年は行く人数も増える  凶作なら代表が絞られる
知恵を出し合いながら、伊勢講と言うのを作ってやる
神宮の方からも伊勢行に呼び掛けて、伊勢神宮の方にお参りに来なさいよとPR活動をする

祈祷をする人 「御師」を 全国に派遣して伊勢講との連絡を取りながら、今年は来てくださいと特定の、各地の村との関係が出来て 伊勢に行ったらそこの宿に泊まるとか、そういう人がいたのでなおさら伊勢参りの熱が非常に広がったことは確実です

旅日記を解読してゆくと非常に面白い
とおいいところだと福島県 7人衆が集まって企画してお伊勢参りに出かける 3か月近くかかる 途中江戸、鎌倉をみたりするがそれでも1か月あれば大丈夫であるが お伊勢参りをした後に西日本各地を旅して、いろんなところを見てくる
福島県北うつし村の寅之助 18歳の日記がある
ここは見た方がいいとか、個々の宿は待遇が悪いとか書いてあったり、近道はこうあるとか、旅の知恵みたいなものを含めながら、後輩のためにも書いているのかなあとの印象

世田谷 30人ぐらいでゆく 田中国三郎(将来庄屋になる人物)
24、5歳の日記 行く先々で甘いもの 食べ物の話が一杯出てくる 
ここで食べたらおいしいとか知っている  
お金がいくらかかったかとか全部書いている
奈良、京都、四国、遠くは錦帯橋 厳島神社とか お札、土産を買ったとか全部書いてある
書かれている内容を見ると凄い喜びになっているなあと思う
宿屋はあらかじめ研究して、宿屋一覧を作って、そことあらかじめ提携して出かける
20、30人となると大変なので、あらかじめ、宿屋、昼食の予約を入れておく
江戸時代の宿屋の役割りは、非常に重要な役割で、宿泊、ご飯を食べさせるだけではなくて、身元引受人的な役割があって、江戸時代でも沢山のお土産を買う

お土産を持って歩くわけにはいかないので、手荷物を国元に送るんですが、個人では送れない、宿屋の名前で送るしかない、両替も宿屋、手紙も宿屋で出してもらう
宿屋は旅をしてゆくうえでの安全を保証する役割を担っている
ほとんどが男 関西地方 伊勢に近い村では、結構女性も入っている(主人の代理とか)
数十人単位で交代でお伊勢参りをする
新しいレジャーみたいなもので、女性たちも相当数の街や村のお伊勢参りの集団には入っている
東北は2カ月、3か月かかるが 関西では近いので気軽に行けた
コースはすこしずつ変えて研究する
旅を楽しみに働くというような、現代の旅観に近いようなものを江戸時代の人たちは作り上げていると、お伊勢参りを見ているとつくづく思う
餞別に対するお土産を中途で、どこで何を買えばいいか、非常に知識が深い

爆発的なブーム おかげまいり  基本的には抜け参りと資料的には呼ばれる
慶安3年 江戸の商人たちを中心に大勢白装束でお伊勢参りに出かけた
宝永2年 京都から10歳前後の子供を中心に女性とかで 数百万人(62万 450万とか)厳密な数字は解らないが、想像を絶するような数で、抜け参りをしてお伊勢さんに向かったという
江戸時代で 大規模なものは3回、中規模を入れると5回ぐらいは、行われている
60年ごとに行われているわけではないが、宝永2年は貧しい人とか、子供、女性が多かった
享保8年 1727年には、京都の花街の遊女たちが物凄い派手な格好をして、踊りさわぎながらいった
伊勢参りがしずしずと行くのか、ドンチャン騒ぎで楽しみで行くのか、おかげまいりに楽しみの側面は、この享保8年が出発点かなと思います それ以後にこのようなものが多くなってゆく
通常のお伊勢参りとも重なってゆく
泊るところもない、食べるものが無いというところまで出てくる(途中であきらめる場合もあった様)  ぞろぞろと人波が多くて、こっちの家から反対側の家に行けないぐらいに人波が切れないという、凄い量だった
お伊勢参りは金持ちが楽しい旅をしてきて、貧しい人たちは、楽しい旅を見ながら、俺たちは一生働いてもいけないなあと、いう風な事で、なんかきっかけに職場から抜け出す、家庭から抜け出す、かまどに火をかけながら子供を背負ったまま、伊勢参りに行っちゃうとか、金持ちの人たちがお伊勢参りは楽しいよと、言うのを結構話すようになると、貧しい人たち、女性はいけない様な状況なので、お伊勢参りは一度でいいから行ってみたいと、言うので抜け参り おかげまいりの波に乗じていくという、そういう事例が相当数出かけてゆく

飲み食い、泊るところ、施業接待を道中で受けることになる 沿道の人々から恵んでもらう
沿道の人から見ると、私はいけないけどあなたが代わりに行ってきてねと金とか品物を上げる時に、柄杓を持ってそれで受けて貰う
柄杓を持つという事がお伊勢参り、特におかげ参りのスタイルみたいになる
柄杓の持っている意味が変わってくる
一日に何万人も通る
お金持ちは連日、おにぎりを配ったとか、寝泊まりするところの無い人は船を浮かべてその中に寝かしてあげたとか、貧しい人たちは一人、二人と自分の部屋とか小屋とかに泊めてあげるとか、お伊勢さんに行くという事は信仰の旅なので、仕事場を抜け出したり、家庭を抜け出してゆくんだが、帰ってきても罰せられない 
行く人たちを助けてあげることが良い事で、そうすると神様の恵みが来るよと言う形
施業接待をすることも、神の心にかなうという、信仰、信心の表れでもある

京都からでも7,8日 遅い人でも10日かかるが、飲み食いの何の準備も、お金も持たないで、
抜け参りをして、数十万人の人が帰ってくるという、途中どうしてたのというこれは凄いことになると思うが、抜け参りが何百万人単位で行われた、と言う事は、それを受け入れた日本の伊勢街道沿いの地域や村の対応、施業接待が凄く発達してきている
それがあるという前提で、抜け参りをしているのではないかと、そういう接待の風習が前にでき上ってきているところへ、突如、突発的に大群衆がお伊勢参りをし始める それがおかげ参り

沿道の人々の、施業、接待とかの 「おかげ」で旅にいけるなというのとか、神宮の方から言わせると、神宮の御神徳の「お陰」で、皆さんが旅ができているとか 解釈の仕方も江戸時代からされている
お伊勢参りは沿道の人たちが支えた
大震災で、皆さん日本国中、外国からも援助の手が来て、ボランティアが言われているが、江戸時代のこの施業接待に当たった人々のボランティア精神は、凄い本物なんだなあという、来る日も来る日も、病人を助けたり、貧しい人、腹が減っている人に食べさせたり、力のない人を駕籠に乗せたり、馬に乗せてあげたり、草鞋を作って提供したり、日本のボランティア社会の走りをこの伊勢参りに見ることができるのではないかと、凄い力があったんだなあと想います

江戸時代の方が全国民的にというか、そういう数百万人の旅人を受け入れて、無事に故郷に返してゆくという事を、みんなの力を合わせてやっていた
庶民の中に信仰心が絡んでいたとはいえ、ボランティア精神は幅が広く、底が深いなあと思います

学生と一緒に、現代版お伊勢参りをしてきた
出来るだけ江戸時代の旅の形をしたが、その時に沿道の方々の真心からの接待に会いまして、暗くなった峠を降りたところ、おじいさん、おばあさんが毎年手焼きのせんべい、暖かいお茶を入れてくださって、畑の畔に杉の板を引いて、ここに先ずは座れと言ってくださって、真心の交流ができて、一番学生たちに何が良かったかを聞いたら、その人たちの出会い、感動をもらったことが一番うれしかったという
旅と言うのは、本人が身体が健康だから、とかで出来るのではなくて、沿道の人々の助けがあって、精神的な意味でも、無言の接待が各地である 手を合わせて見送ってくれる

お伊勢参りは田植えの前に行くが、小さな集落でご飯を食べさせてもらったが、おばあさんが暖かい卵が入った味噌汁をお椀に出してくれて、心がジーンと熱くなった(心も温まった)
学生さんが来るので、近所に卵を貸してくれといって、おじいさんが回って歩いて集めたとのこと
接待、ボランティアの奥深さ、人間て、ここまでやるのと、お伊勢参りを通じて、学生たちはそれに感動する
人間的に成長する 旅は人を育てている 凄い財産になってゆく

お伊勢参りは日本人にとって何だったのか?
日本全国に伊勢街道がある 伊勢に近いところだけではなくて 伊勢に向かう道
屋久島にも、お伊勢参りの歌がある
伊勢に行って、そこで歌や踊りを勉強して来て、村の文化に持って行った
伊勢に行った道中で学んだことを、地域に持って帰ってくる 
途中で見聞したことを、各地に伝えることによって、地域文化のなかでそれぞれ個性を持った形で伝えれれる

伊勢参りは日本人の文化を育てながら、かつ、レベルをアップしてゆくのに役に立っている
伊勢街道は情報の道でもある   見聞したことが地域の財産になっている
日本の文化を高めてくる役割をしたし、伊勢神宮にいっただけではなくて、地域文化を見聞きしている、交流している  違う地域ではこんな農業をしていたとか、こういう産物があったとか、お伊勢参りをすることで日本各地にもたらされる
若者、若い感性で見聞きしてきたことが、地域作りの中に深く浸透していっていると思う
歩いててゆくという事で、(道中) 発見したものは 自然観察、人間、地域と言うものについてよく観察できている
現代は乗り物があり、道中が無くて、目的地の飛んで行って美味しいものを食べ、見て帰ってくる旅を大事にしている江戸時代の社会のシステムも面白いので、掘り起こしてみるともっともっと違うものが見えてくるかもしれない