2013年7月30日火曜日

惣万佳代子(デーサービス代表)     ・富山から福祉を変え続けて20年

惣万佳代子(デーサービスこの指とまれ代表)     富山から福祉を変え続けて20年
惣万佳代子さんは20年前に看護師仲間と3人で、デーケアハウスこの指とまれを、富山市に開きました
この指とまれは赤ちゃんからお年寄りまで、障害があってもなくでもだれでもが利用できる、福祉制度の垣根を越えた、日本で初めてのケアハウスです
そのために8年間は、行政からの補助を受けられず、いつも経営はひのくるま、苦労の連続でした、ところが10年後、国は惣万佳代子さんたちが始めたこの方式を富山型デーサービスとして、認めるに至りました
またこの4月からは、惣万佳代子さんたちが実践してきた、障害を持つ人たちへの仕事の斡旋や、雇用が国から承認され、障害者の就労に風穴があくと期待されます
型破りの発想で、福祉の世界を変えてきた、惣万佳代子さんに20年間の話を伺います

いつつぶれるかわからないと、言われているのでよく持ったねと言われる
1日が長く、48時間にも72時間にも感じた日があった
10年過ぎからは、10年は早かったように感じる 
30時間を一日取れたら、充実していると思う 丁度いいかなあと思う
この指とまれの施設に一角に住んでいる
最初の理念 根本的には変わっていない 今は安定したこの指とまれになったと思う
富山赤十字病院に20年間看護師として働いて、最後の4年間で経験したこと、お年寄りは家に帰って暮らしたい、死にたいというんです 

障害を持った人、介護が必要な人なのでお嫁さんは働きたいために、うちでは見られないという事になる
老人病院に行くことになる  しばらくして観に行ったら、手足をひもで縛られていた
ほとんどの人が、天上向いてしゃべらないで、しゃべられたかと思ったら、はよう迎えにきてくだされと言って、手を差し出す
家の人に迎えに来てくれと思ったが、仏さんか神様に迎えに来てくださいという事が解った
看護師として、命を助けても最後のところで、泣いているじゃないかと、何かお年寄りに力になれないかと思って、友達3人と病院辞めて、家で死にたいとか、家でずーっと過ごしたいという人を
支えたいと思って辞めた

なんで赤ちゃんからお年寄りまで、そして障害者まで入れたが、お年寄りだけの対象者にしても良かったのではないかと、見学者に言われたりするが、確かにお年寄りがきっかけだったんですが、街に住んでる人たちで困っているのは、お年寄りだけでなく、赤ちゃん、障害者も一緒にささえようとした
看護の原点の対象が全ての人だから、自然にできたのかなあと思った
もし福祉大学に行ったりしていたらこのような発想は無かったと思う
小学校の卒業文集に看護師になりたいと書いた
私の母は中学2年の時にあと半年の命だと宣告された 
入退院の姿を見て、高校を卒業するときに看護師になろうと思ったのかなあと思う

母はよかったのは、居間で生活していた 皆と一緒TV見たり、して過ごした そのあと15年生きて、介護をした
人間はいろんな方たちに支えてもらいなが生きるのが、人間なんでしょうね
その代わり母も私たちをちゃんと育ててくれたし、順番なんですよね
最初、内科病棟、小児病棟、あの頃未熟児施設があったので、人生無駄が無いと思う(その経験が役に立っている)
辞めるのに凄い決断だねと言われるが、自分ではそうは思わなかった やりたいことをやるだけだから、ただよく言われたたのは生活が苦しくなるし、こんな安定を捨てて行くのは何事かと言われた(間抜けの3人と言われたが)

初めは土地、お金、の用意から始めなければならなかった
銀行もお金を貸してくれなかった  商工会議所の人が 3人が退職金を投げだして、やると これからの福祉はこういう人たちにやっていってもらわなくてはいけない、そしてそれを応援するのが国民金融公庫なのではないかと、600万円貸してくれた(有難かった)
建物で3400万円かかった(私たち3人で退職金が合計3000万円)  全国から寄付金が集まった
行政とぶつかる 赤ちゃんからお年寄り、障害者までを含むと、補助金は出せないとのこと
でもやってみたらと言われた

「この指とまれ」私がネーミングした  赤ちゃんからお年寄りまで皆がコミュニケーション出来る場所と言う事でこの名前がぴったりだと思った
最初、利用者が集まらなかった  当時認知症預かったら(9時~3時頃まで) 処置費1万円出ていたので、そこの利用料は 一人600円程度でよかったが、うちは一日居た場合に2500円 利用料を頂こうとした(指定ではなかったので補助金はもらえなかった) 食費500円プラス
600円対3000円では高いので、やっぱりそっちの方に行ってしまう
午後6時まで預かります、時によっては午後8時までみますとパンフレットを出した
土、日も見て当たると、仕事があったら、獣医の人たちが先ず来られるようになって、段々増えてきた  時間の柔軟性があよかった

平成9年、在宅障害者、障害児のデーケア事業委託された
障害者のお母さんたちが署名運動をして、10日間で120枚集めてくれて、それで市が動いて初めて委託事業をうけたが、だけどその時には社会的理由でないといけないとのことで、でも理由はいいんじゃないかと、委託された時に土、日もやっているところが利用しやすかった事と、電話一本で引き受けてくれたと、時間が遅れてきても、文句一つ言わなかった、取っても使い勝手が良かったので、来てくれるようになる
社会福祉法人等が段々、委託事業の手を引いて行った(大きいところでは土、日はやっていなかったし)
スタッフは3人+ボランティア(登録だけで32人) 人には恵まれた
平成5年に利用者は1.8人/日  8年後に介護保険が始まったので、7年間よくできたと思う
3年目、4年目には人を雇うようにした
いろんな人たちが動いてくれて、マスコミも応援してくれた
潰れるのではないかとの噂があったりし、自分の心の中ではつぶれるのではないかと思った 
介護保険と言う展望が見えてきたときに私たちが、指定になれるとは夢にも思わなかった

指定業者になれたことはNPO法人のお陰だし、県がNPO法人を進めてくれたことが、よかったのではないかと思う
平成9年度に5人規模で年間180万円頂いた 10人規模だと360万円頂ける
平成12年度からは制度で補助金を出せなくなると言われた
法人株を持ちなさいと言われて、県もNPO法人を進める事で、平成11年に認証式こぎつける
ナイチンゲールが生れた日に認証をもらえた
 
富山は共生のデーサービス93か所ある  
認知症研究している学者はそこに障害者を一緒に入れることには、反対していた
地域福祉を考えている学者さんだけが、今までずーっと応援してくださっている
忘れられない人、認知症のおばあさん とか7年、8年利用した方々は特に忘れられない
現在 職員52人(常勤+パート) 常勤は65%占める
事業拡大は出来るが、なるべく拡大したくは無い  丁寧に支えてゆくのが目的なので
一番最初に銀行からお金を貸してもらえなかったが、平成1年にマンションを買ったが、銀行から借金したが、ハンコ一つで購入した 

保証人も立てずに2100万円のマンションに1700万円の借金だったが、貸してくれた
でも800万円借りようとしたら、初め断られて、商工会議所の後押しで、600万円貸してくれるのに裸にされるように一杯調べられた
今まで信用あったのは、私ではなく赤十字にあったのかと、世の中の厳しさが初めて分かった
自分のしていることは間違いないと思った 喜ばれる仕事だったから支えられた
私は相談しに来た人には、やめられとは言わないです 
その人はその人の考えで、夢を持ってきているので、一度の人生なんだから、賭けてもいい時期があるのではないかと思うんです
人の人生の中に辞めた方がいいとは私の考えでは言えない(私も続けているからですよ)

現在 11カ月の赤ちゃんから97歳のお年寄りまで68人が利用しています