2013年7月9日火曜日

村上龍男(水族館館長)      ・クラゲに賭けて世界一の水族館へ

村上龍男(山形県鶴岡市立加茂水族館館長)  クラゲに賭けて世界一の水族館へ
村上さんは1939年(昭和14年)生まれ 73歳
山形大学農学部を卒業した村上さんは民間企業に就職した後、1966年(昭和41年)に、今の鶴岡市立加茂市水族館に入り、飼育員として、スタートしました
水族館の規模は小さく、次々に大型の水族館が出来る中で、客足は落ち込み一時は存亡の危機に立たされました
そんな中で、館内の水槽で偶然生まれたクラゲを、展示したところ評判となり、水族館ではクラゲを集中的な収集を始めました
今では館内に展示されているクラゲが常時35種類から50種類となり、その数は世界一として去年ギネス記録にも認定されました
世界一になるまでの道のりなどについて、伺いました

会館直後、お客さんがぎっしり  大きなバスを乗り付けてきてくれた
ほの暗い水槽の中で明かりに照らされたクラゲが浮かび上がって、非常に何とも言えない幻想的な雰囲気ですね  
魚の展示とは違うかもしれない  皆さん歓声をあげる
動きがとにかくゆったりで、自分の意志と言うよりも、水流にただ乗って漂っている
確かに癒されるような、なにか受けると思います

民間会社(商事会社)に3年間務める 私は自然が好きだったので、東京のビルの窓から見る景色が緑が一つも見えなかった 本当に渇望していた 故郷に帰りたいという気持ちはありました
たまたま恩師が水族館で人を募集している、資格等ぴったりしているのはお前しかいないと、言われて、渡りに船、と言うことで、戻ってきて水族館に就職した
最初に出来た当時の水族館 市の職員 3名のトップとして、入ったが、水槽の掃除、餌やりする
本当に小さい水族館で、建物も小さく、内容も乏しい、これ以下は無いというようなこじんまりとした水族館でした

4年目で水族館を20万人ちょっと越えて繁盛していたが、売ってしまった
入館者がドンドン減って行った  悪循環
館長に27歳の時になる 飼育係が好きだったが、経営を任されてしまう
周りにちゃんとした水族館が立ち始めて、この水族館がみすぼらしい水族館だという事がばれてしまい、急激に来客者が減ってきてしまった
いろいろ手を打ったが、駄目だった  差が歴然としてくる
どうすればいいのか、ノイローゼみたいになる(3日3晩眠れず)
なるようにしかならないと割り切った(追いつめられて)

目の前が海なので釣りにのめり込んだ
釣りをしないのは一人前ではないと、そんな時代だった、
黒鯛釣りが上手だとそれだけで尊敬された 
私も釣りが上手になって一目置かれる存在になった(釣りは自分の逃げ場としてはやくにたった)
僅かの資金で改修とかはやってきたが、お客さんは増えては来なかった(真似をした)
伊豆の動物園に行ったときにミーヤキャットがかわいかったので、真似をしたが冬を越すのが大変だった
ナマズ展 世界のナマズ展 古代魚展 とかいろいろやったが、お客さんは確実に減って行った
ラッコ 1500万円/一頭  2頭購入 1500万円しか借りられなかったが、集客で来るだろうと思ってやったが、やはり駄目だった
冬を越すためのお金を借りるために、東京の本社にいって無心したが、どうにもならなかった
自分はこの世にいらない人間かなあと、考えましたよ 建物から逃げるように出てきた
どうすればいいかとウロウロしていた時期があった
ラッコでもう最後だと引導を渡された様な気持ちだった

借金は全て私の背にしょっていたので、いずれホームレスかなと言う想いでやっていた
平成9年にどん底を迎える 何かしないといけないだろうと、ちいさな水槽2つに、生きたサンゴとサンゴ礁の魚をいれたが、この辺にはいないので、お客さんが見に来てくれると思ったが、そうはいかず、とうとう9万人ぐらいまで落ちてしまった
いよいよ終わりだと、来年は8万人台に落ちるだろう、そうすれば、どこも治せない、雨漏りも治せない、どうしようもないと維持してきたが、もう終わりが来たなあと思いました
覚悟したら、珊瑚の水槽から小さい生き物が泳ぎだした 直径3mmぐらい 20から30匹
なんだろうと思ったが、いくら見ても解らなかった
一番若い飼育係が興味を持って、餌をやったら、それがクラゲになった  さかさクラゲ
クラゲとの最初の出会いとなった

6月になったら、展示できるサイズになった 直径3cmから5cm    展示することになる  
そうしたら、魚を見た後にクラゲだ、クラゲだと、さわいでいた
予期せぬ反応だった
終わりを覚悟していたので、これはすごい生き物だなあと思った
飼育係が水族館の海で捕まえてきて、入れた  同様に反応した
その年は2、3種類をとっかえひっかえ展示した
翌年、クラゲを捕まえて、あるいは買って 4種、5種を展示したが、生態が全然わからなかったので2週間ぐらいしか、活かすことはできなかった

とっかえひっかえ展示したら、僅かだが2000人増えた これが大きな力になった
ゆくゆくは日本一やりたい、世界一になりたいと大きな夢を描いた
当時の市長に面会して、日本一の展示をやりたいので、一人の人件費を出してほしいと交渉したら、二つ返事で出してくれて、専用の飼育係を採用して、3年目、4年目にはいるところで、日本で一番多い種類の展示までこぎつけた (その時で12種類)
借金して、水槽を12個並べて、物凄い決意で、清水の舞台から飛びおりるつもりで、やってみれば、お客さんは増えるだろうと思ったが、逆だった
お客さんは減ってしまった あそこで多少の事をやっても大したことはなかろうと、報道もそこそこ取り上げたが、大きな話題にもならなかった

秋口になると直径25cm、30cmのアオダンゴ(砂色クラゲ)というクラゲが、泳いでくるので、それを捕まえてきて、メインの料理をシャブシャブにして、面白、おかしい料理を作って、多くの人を招待して食べる会を思いついた
必ず大きな話題になるだろうと、思ったが、周りは実行しない 周りは本気にしていなかった
クラゲを食べる会を実施したら、大騒ぎになった それがあまりにも面白いものだから、全国的にTV局が流してくれて、後半は大変お客さんが来てくれて、借金を返すことができて、難を逃れた

やったことを広く知らしめなければ、やったことは存在しないんだ、やってない事と同じだという事に気がついた
やっていることを広く認知してもらうための、いろんな手段、 真面目に考えていることは駄目でした
クラゲの展示は増やしたが、クラゲ入りのアイスクリーム(越前クラゲを刻んでいれた)
越前クラゲが話題になった時に 日本中で厄介なクラゲが来たときに、刻んだアイスクリーム
クラゲ入り饅頭、羊羹を作った  段々浸透してきた
収入が増えた分は全部クラゲの展示、拡大につぎ込みました
とにかく大変だった 少しずつ少しずつクラゲの事が解ってきて、解決しながら、行けども行けどもそれまで見えなかったものが出てきて、いまだにそんな感じです

多くの種類を見せたかったが、寿命が短い  平均すると4カ月生きない
繁殖を手掛けなければならなかった 
クラゲの卵は小さくて見えないので、担当者が顕微鏡を購入してほしいといったが、お金が無いので駄目だった
クラゲの繁殖させ方をいろいろやって、そのうちになんとか、1種類できるようになり、それをきっかけに顕微鏡を購入する事が出来るようになり、これで飛躍的に向上した
日本列島の季節のずれを利用して、いろいろとクラゲを送ってもらった
20数か所ネットワークが出来て、、いろんなところと仲良くして、そこから今、毎日のように送られてきます(こちらから送ることもある)

ギネス記録 昨年達成  クラゲ展示種類数  30種類 ダントツの世界一だった
周りの見る目が違ってきた
クラゲは私を救ってくれた、水族館も救ってくれた  
神様がクラゲの姿になって、ここを助けに来てくれたなあと思います
来年 オープン 新しい水族館に生まれ変わろうとしている 
くらげに特化した、全く新しいものを誕生させようとしている
直径5mの円形水槽がメイン 30トン  他は最低でも700トンとか最大7500トン
水クラゲを一杯泳がして、お客さんがそのまえに立った時には、物凄い感動で呼吸できなくなるほどの、感動を得ることができると思います

建設費の一部をクラゲ債を出した  
鶴岡市が考えて30分で完売したという 、全体で3億円
新しい水族館に対して夢をもってくれているのだなあと思います
館長 47年間  一時は絶望しましたが、その絶望が今につながっていると言うのは、今解ります
全て負けゲームが最後の一つで、逆転した  
だから負けゲームが最後の意志につながっていた  実は負けゲームではなかった
世の中、まんざらではないです