2013年7月26日金曜日

芳賀 綏(東京工業大学名誉教授)  ・唱歌100年 心の歌を残したい 2

芳賀 綏(やすし 東京工業大学名誉教授) 唱歌100年 心の歌を残したい 2
出身は福岡県北九州市 物心ついてからは、九州の他の地域に住んで、小学校の初年に北海道に住んだりしたが、中学校では又、北九州市に戻ったので、そのときには思い出はある
戦争の激しいまっ最中だった
北海道もあちこちに住んだ 
学校教育は6 5 3 3制だった 北海道大学予科の最後の卒業生です
北海道は緑がみずみずしく、感性が育った時期に 故郷などの唱歌を教わったので、実感とぴったりだった
国定教科書だったので作詞、作曲者の名前は一切誰であるかは、解らなかった
(先生も知らない  戦後、個人の著作権を認められて、文部相が著作権を一手に持っているのではなくなる) 

「春の小川」  このような光景はどこでもみられた
「故郷」   特定のどこかを歌っているという事は表には出ていない どこにもある風景
河骨川(こうほねがわ) 渋谷の小さな川がモデルにはなっているが、実況描写しているわけではないので、それだから良いわけです  
地名を特定してしまうと、小学唱歌の意図とは意味が違ってきてしまうので、地名は入っていない
昭和17年の教科書から口語体になってしまった(改悪)
「さらさら流る」→「さらさら行くよ」  「ささやく如く」→「ささやきながら」
雰囲気、意味合いが違ってきてしまう
ごく最近 昔の俳句、和歌だとかを文語体でも教えるようになった(改善)

戦争は中学に入った時は、始まっていた
重苦しい気分ではあったが、「愛染かつら」、「誰か故郷を想わざる」とかがはやった
物理学者、寺田寅彦(夏目漱石の弟子だった)
「天災と国防」の書き出し
「何かしら、日本全国土の安寧を脅かす、黒雲のようなものが遠い水平線の向こう側から、こっそりのぞいているらしい という言わば取りとめのない悪夢のような不安の陰影が国民全体の意識の底に揺曳している」  昭和9年の秋に書いている
段々戦争の色が濃くなってゆく(戦争に一直線と言うわけでもなかった)

日本語学 中学3年ぐらいから、学者の生活を知るようになった 東洋史の有田かいおう先生に中学2年の時に会えて、風格を感じた
国語辞典を作るという事が、軍艦や飛行機を作ることと比べて、どれだけ学者の心血を注ぐ作業であるかと、書いてあった 実に尊いものだと、言う事を教わった(戦争が一番激しい昭和18年)
日本語学から見た唱歌 言葉の格調の高さのある立派な文芸だと思う

「虫の声」 最近は虫の声をきけなくなってきたが、日本の自然を取り戻そうという運動が高まってきた
そこに小学唱歌が復活して来ている
宮城県石巻市 と専修大学 昨年の12月唱歌斉唱、シンポジュームの催しがあった(専修大学の校歌が高野辰之が作詞している関係でイベントを石巻と一緒に行う)
昭和2年 日米間 戦争に向かう雰囲気はまだなかったころ、アメリカのギューリック博士が人形を送ってくれる 「青い目の人形」を 1万2千個を全国の小学校に贈った
人形を迎える歌を高野辰之が作っている
「海のあちらの友達の誠の心のこもっている、かわいいかわいい人形さん あなたをみんなで迎えます」 アメリカにいる時と同じ気持ちで日本で過ごしてくださいという内容がその後ずーっと続いている   博士のお孫さんが又新しい人形をプレゼントされた

高野辰之の催し物で再認識しようという動きが高まっている
人間愛  国を隔てていても、ひとしく愛する、又日の当らない人たちが生み出した芸能にスポットを当てた
歌の力の強さがある(特に大震災後の歌のなした事)  
唱歌 年代を越えて老いも若きもみんな教わったので、ともに一緒に歌う事に違和感がない
東村山市小学校に講演に行ったときに、小学6年生が平家物語の冒頭をずーっと群読してくれた(暗誦している)  これには感動した
幼いうちに難しいことを教えてはいけないというのは、間違った教育の思想であって、幼い時ほど感性が鋭いから、吸収する
その子たちは平家物語の冒頭部分を忘れない
日本語の響きが耳に残り、頭に残り、体内に残る、そうすると意味が段々解ってくる
人生経験を重ねると、アーこういう事を言ってたんだと、中年ぐらいになって解っても遅くは無い
言葉は人の心を横につなげると同時に、昔の人と縦につなげる