2013年2月22日金曜日

夏苅郁子(児童精神科医59歳)      ・統合症の母との歩み

夏苅郁子(児童精神科医59歳)       ・統合症の母との歩み
鬱病 統合疾患等、精神疾患の人数は300万人を越えてます  
これまで見過ごされたのが、精神疾患の親と暮らす子供達の存在です
そんな子供達を支える活動をしているのが静岡県 焼津市の児童精神科医 夏苅郁子さんです
夏苅さんが10歳のころにお母さんが統合失調症になりました  
夜になると目付きが鋭くなり、 意味不明な独り言をつぶやきながら 部屋を歩き回ったりします
何も知らず育った夏苅さんは思春期をただただ母親を恨んで過しました自身が精神科医に成ってから、そんな母親を許そうと思う様になった  と言います  
自らの体験を公表し、多くの子供達の心を救おうとしています

母が如何して病気になったのか、今は母は亡くなったが、一人の女性の人生として振り返ると 、あーそうかこういう事で心の病に成ったのかとわかって来る面がある  
2歳ぐらいの時に母が結核に成り 、隔離病棟に収容された(2年間) 
その間私は親戚に世話になった
その間、母親は子供に会う事が出来ず( 寂しさ) 戻ったときに父との関係が悪くなっていて。
(他に女性を作ってしまっていた)
耐えて、耐えて、耐えて行った(性格上 自分の利益のために活動する様なタイプではなかったので) 
子供の頃から母とは2人だけの食事に成り、夫が帰ってこないので、段々母は食事を作るのにも、鬱陶しくなり 8年間同じ食事を取るようになっていった 
母は自分は食べる気が無く、台所の一か所にずーっと座って煎餅を食べていた  
のりで張り付いたように同じ場所に座っていた

私は家庭の団欒が解らずに育った  
10歳の時に母は統合症が発症した 怖かった攻撃的になり夜眠らない 
のそのそ歩きだしてぶつぶつ言っていて、目が鋭くて目が合うとやられるのではないかと、目を合わせないようにしていたのを覚えている(病気は知らされてなかったのでどうしたらいいのかは判らなかった この事を聞いたあるマスコミの方からどうして助けを求めなかったんですかと言われたが、何を誰に助けを求めればいいのでしょうとお答えした)         
それは後付けで病気だと解っていたら、いろいろ手は打てたと思うが よその人に言う事で母が怒るのではないかとも思って話すことはできなかった  
視野に入らない様に、怒らせないようにするしかなかった   そのような子供時代だった
 
母がたまに外に出ると、幻視が有ったりして 道路を歩きながら、ハードルをぴょんと越える様な動作をしたりして、霊が取り込んでいるとかも言われた  

最初は父とのことで悩んでいると思ったが、その後いつ病気になったのかは解らない
子供時代は自分の視野は家庭だけだったので、母に対しては怖い だった  
思春期になると目が外に向く そうすると自分の家と友達の家との違い
自分の身成りと、他の友達との違いが気になる 
母の生産性が無くなる 家事とかが出来なくなる 
掃除も行きとどいてなくて 辛いのは父親がたまに帰ってきて 家の中を見回して「お前はこんな親には成るなよ」と言われたのが本当に辛かった
父が営業職だったので転校が多かった 経済的にも父が給料を持ってきてくれなかったので、
経済的にも厳しくて それも母の病気を悪くした原因だと思います

中学3年の時に転校があり、前の学校の制服で行くように母から言われたが、人目を気にする時期だったので、嫌だと言ったら 母が似たような制服を作ってくれて、それを着て行ったら、矢張りちょっとおかしくて、でもそれしかないので着て行ったら、いじめの対象になり、周りの人からいじめに遭うようになった  
一番心に残っているのが、階段を下りた時に 踊り場で付きおとされて階段の下に転げ落ちて、
スカートがめくれて下着が丸見えになってしまった  
14歳の少女 痛いと言うのより 凄く恥ずかしくて 階段の下から上を見上げて、突き落とした3人の男と1人の女がいた
その時に「あいつらよりも良い人生を生きてやる」と思った  
その辺りから母への思いが憎しみに変わりました
 
こんなことをされるのは、自分の身なりが貧しくて、他の家と違う育ち方をされたからだと 
それからは母とは口を利かなくなった
母が辛そうな時があっても 私だってこんなにひどい目に有っていると言う感じで そこら辺から亀裂が入ってしまったと思います
貧しいだけだったら、母にこんないじめをされたとか、相談できたと思うんです
でもやっぱり同じところに座って、おせんべいばっかり食べて、タバコを吸って一日中ぶつぶつ言っている母に何も相談できないでしょう、とっても自己中心に見えました
それはこの病気の怖いところだし、悲劇だと思う

子供である私自身も母もこの病気の被害者だと思います  
お互いが憎み合っているのはこの病気の悲劇だと思います   
もし知っていたら、過去に戻れたら私は母に、なにがつらいのかとか、先ず病院に連れて行ったと思います  
治療が中断していたので、薬も飲まなくなっていたし、なんで飲みたくないのかも聞いて、よく眠れるようにしようねとか、そこから掘り起こして行けたのではないかと思います
本当にそのことを知らないと、憎しみとか、嫌悪感が 自然にほっとくとそうなってしまうと思います
この当時の状況では母にはいろいろなことを母には相談できなかった
(病気だとは、まだ知らなかったので)
 
女子大に進学するが、それは恨みだった  
母が統合失調症で 私が精神科医になったと言うと皆さん お母さんの為に精神科医になったんですかと言われるが 私の場合は母のことで自分は不利益を被ったと思った  
這いあがってやる 向上欲とは違うと思う  
やっぱり恨みと言うか、階段から突き落とされたときに、あいつらより良い人生を生きてやると思った恨みです    私は医者で無くても良かった 
弁護士でも何でも良かった(見返す事)
母は私が女子大に入ったときに、2回目の入院をして、父は母ともう一度、人生を歩む気は全く
なかったので退院後一度も家に入れないで実家に帰して離婚でした 
一人っ子だったのでどちらかにつくしかなかった
母を引き取ったのは祖父だった  二人は引き取れないと言った
学業を続ける事、母への嫌悪感 とかで、父に引き取られた

母とは10年後再会を決心するまで、会うことは全くなかた  
大学では 復讐とは人の心を救わないと感じた 見返してやりたいと思ってより偏差値の高い大学に入ってやるだけだったので、入ったら目的が無くなった
私は戻るところが無かった
医学部に入った頃 、父は再婚した 
母とはまったくちがった性格だった(社交的で明るい方だった) 
私の気持ちは船を乗り換えるようには出来なかった 実家に帰った母にも嫌悪感があったので帰れないし、結局 大学の講義を聞いて、下宿でボーっとする時を過ごす 

だから盆と正月は大嫌いでした   
学校に授業があれば時間は潰れるが、三が日ひたすら炬燵のところでうずくまっていました 
そうしているうちに心が病んでしまって行った
2度の自殺未遂をする 摂食障害も抱えてしまう 一番やられたのが孤独だったと思う 
もし母のこととか、こんなことがあったと、伝える事が出来たら、一杯一杯だった気持ちは随分楽だったと思います  この病気の特徴で 言うとまずいと思った

講義で統合失調症等を習った  教師は生徒の中に統合失調症の経験の有る生徒がいる事は
知るはずもないので、物凄くストレートに話す  
今、私が医者をやっていて、統合失調症の家族の方がいたら、すこしくるんで話ますよね
段々に受け入れられるように、でも講義なのでバーンと
遺伝も有ります とか 病後の経過は悪いですとか 症状は全部母に当てはまった  
過去はボロボロでしたし、今は孤独ですよね、 講義で未来は真っ暗な模様 
生きていればいるほど辛いと思って、1分1秒でも生きていたくないと思った  
医学生の時にも自殺未遂をしてしまった 
 
収容された病院にわざわざ大学の精神科の教授が往診に来られた 
あーこの子は精神的に弱いなあと言われた 
方向を決める時期でもあったので、私のところに来なさいと言われて精神科に入った  
立ち直れると思ったが、精神科医になると精神病院に派遣される  

自分の母の事を解決できていたら、こういう患者さんを一生懸命見ようと思ったんでしょうけれども、未解決のまま300床を見る事に成り、そこで又真っ暗だなと思ってしまって 研修医の時に2回目の自殺未遂をしてしまった   
こんなことを話したら今、精神科医として失格と言われるかも知れないけれど、何度も台の上に乗ってこれをけったら楽になると思ったんですが、やっぱり精神科医に成ってよかったと思うのは、亡くなった患者さんが沢山いて、残された家族の顔が浮かんでくる

自死家族の想いはつらいものです  残された家族の顔が浮かんでくるのと、どこかで100のうち1くらい幸せになりたいと思った事、もう一日だけ生きて見ようと思った時に声を掛けてくれた人がいた  
だから亡くなろうとしている人達にも、是非家族はそんなこと考えちゃダメと言わないで、辛いねえ死にたいほど辛いんだねと言ってあげる事と、一人にさせないで欲しい
誰かの足につかまっていて、とりあえず一日越そう 朝を迎えようと そういう風に声を掛けてあげたいと思います

2回自殺未遂して、そういう地を這うような人たちの出会いで踏み止まったんですけれど、
生きて行こうと力強くは思えなかった  
一番大事な自分のルーツ、母との事が解決していなかった  しょんぼり生きていた
友人が「貴方はお母さんと会わないと、自分自身が幸せになろうと思えないんじゃないの」と言われた 自分の親を見捨てておいて、自分だけ幸せになろうというのは思えないし、どうせろくな人生にならないと思っていたので、いろんな自分の見返す事があったり、いろんな出会いがあって、彼女の言葉が 素直に心の中に入ってきた  でも怖いと言った
 
子供時代の恐怖 10年もほったらかした事に対する恐怖 (母は怒っているだろう)
母の怖い顔は、子供時代のあの怖い顔なんですよ  
行けないと行ったら一緒についてゆくと言ってくれた
友達が付き添ってくれて10年ぶりに、母に会う事が出来た
母は札幌の奥の方に住んでいたので、飛行場まで来なくていいと言ったが、行くといて喜んで喜んで、空港から街に出るバスに、一台、一台首をつっこんで、「郁子さんいますか」と大きな声で探しているんです
母を観て第一印象が何て小さくなったんだろうと思った 年取ったんですよ 怖くてぎらぎらした母しか覚えていないので、背中がまあるまってちっちゃくなって、 「いっちゃん」と叫んできた

家に入ってお腹すいたでしょうと言って、出してくれたのが8年間私が食べていた料理だった 
母の想いは子供のころから止まってたんだと思った
氷が解けて行くように会えてよかった 私の心が救われたようだった  
母は亡くなったが、会わずに亡くなってしまっていたら、ずっと苦しんだ来たと思う
泥泥した事に他人は、はいりたくないのだが、友人は一緒に北海道まで、来てくれた事に感謝した  天から姉が降ってきた、と言うぐらいに信頼していた 
母と会って、帰ってきて何日かして、その人から請求書が届いた

相談料として10万円支払って下さい、と手紙が来た  
その晩にその手紙を読んで、その場にへたり込みましたね 今は、こう言って言えるけど、その人の優しさにすがって生きてきたので 凄い裏切りだと思った  でも払った
 何故かと言うと 一本の命の綱みたいなものだったので、帰る家がないし、友達もいないし この人から離れたら、私はきっと3回目を考えてしまうと思った
凄く屈辱的だった  それからは遊びに行くと 人の関係はお金が入ってしまうと駄目ですね  
甘える時に、これはいくらなのかなと思うようになった

その後も月に何万円と言われて支払ってきた  
でも感謝しているが騙されたと思っていないんですよ   
彼女以外はだれも何もしてくれなかったから   ドロドロしたところに入りこんでくれた  
彼女の家でいろんなご飯を作ったりして、子供時代になかった事をいろいろ教わった事、又お金を払う事で私はぴしっとなった
一本の細い糸しかなかったので、それしかないと真剣に聞いて真剣に考え、努力した 
真剣にしがみつかなければいけないと思う、 
真剣に彼女の言う事を聞くんです  真剣に一つやれば人一つ一つ強くなる

これは同じような事を、医学部にはいっていない、普通の方がそういう回復の過程をたどっているのを、見てきているので やっぱりそれだけのことを、治す人と治される人が真剣にやれば、ひとは回復するし、プラス思考に持っていけると思っています
2006年 母は78歳で亡くなる  夫と出会う事になる 
精神科医をしていながら 内なる偏見がある 
これは外に言うとよくないと 公表すると言うことは、あり得ないと思っていた(常識として)

常識の中に身を置いていた
矛盾を抱えながらも、内内の事として診療していた  
段々と健康には成ってきたが、隠し事があると言うことは、どこか壁が有った
クールな女医さんと言われていた
或る日 「我が家の母は病気です」(中村ユキ)と言う 本の新聞広告が有った 
これを読まなければいけないと思って、すぐに取り寄せて読んだ
この人に会って自分の気持ちを聞いてもらいたいと思った
彼女なら解って貰えると思った 聞いてほしいと手紙を書いて、4年前会って6時間近く話あった
(治療して貰ったと思った 語ることは治療になる 同じ境遇) 辛い事を言えた
家族として扱われたことは無かった その時はじめてだった  (52歳の時)

人は暦の年齢ではなく、いつかどこかで清算して階段を上がっていかないと、成熟出来ないと思う
自分も公表しなければいけないかなあ位と思っていたが、彼女は自分と母の為に書いたのではなかった 
今も家庭で苦しんでいる 家族、患者がもっといい医療を受けて大手を振って歩ける世の中に成って貰いたいというもっと大きな心で書いていた
彼女と話しているうちに、それに気がついて、なんて凄い人なんだろうと 思ったのと、会う前はどうしようかなあと思ったが、帰る時は公表しようと思った

人の運命は自分で選ぶことはできないと思う   
恵まれて、温かい家庭で育つのもその人の運命です 
もっと大変な家庭に生まれたのも、その人の運命だと思う  
人生は基本的には不公平だと思います
でも そこを後でぎりぎりの処で踏ん張って、乗り切って幸せになれるのは、どこが違いかと言うと、運命のもとで誰かが手を差し伸べてくれた事なんです、だから人生は不公平だけれども、皆さんの何かの援助支援、じっくり話を聞いてくれる、小さな子供だったら美味しいご飯を食べさせてくれるとか、其の時には其の人が大きなことをやったと、自分では思わなくても、後でその子供達の人生に大きな支えになる

恵まれている人は感謝して、そうではないかたに何かの支援、力を貸してほしい
ほんのひと時、の何かの支援 その人が出来る時間とか力を貸して頂きたいと思います
私は最初の色が暗い色だったので 今は凄い明るい色に見える  
生きてて良かったと思う  人生って素晴らしいと心から思えるようになりました 
応援する勇気を持ってほしいと思います
医者に成って30年 と公表してから3年間 どっちが濃い時間だと思うと公表してからの3年間が
凄く濃い時間です  輝いていて本当に良い時間を過ごせているので、それが55歳からでも60歳からでも遅くは無いです
遅いと言ってしまった時からしぼんでいってしまうので、是非神様がいいと言ってくださる時まで、いろんな可能性を持って、どの方もせっかく生きてこられたのだから、人生って素晴らしいと言って、さよなら、となるといいと思います