2013年2月15日金曜日

吉永馨(東北大学名誉教授85歳)    ・理想の最後を考える 2

吉永馨(東北大学名誉教授85歳)・理想の最後を考える 2
祖父が医者だったが早く亡くなる 
20歳の時に、父の希望としては子供の一人は医者にしたかった 
昭和22年に旧制2高に入った (仙台) 25年に東北大学医学部に入り29年に卒業した
ホルモンの研究をする 講師になり、付属病院長 医学部長 東北労災病院長 (9年間) 
現在 宮城県成人病予防協会会長も併せて勤めている
実務はない 名誉職の様なもの(ボランティアみたいなもの)  
一番の大きいのは 癌になるとどうしていいか、判らなくて苦しむ  苦しんだ結果、 
民間療法で、訳の解らない高価な薬を購入して、結果においては何の役にも立たない  
お金がかかっただけと言う 死に対する備えがない 非常に苦しんで悩んで
、余り良い死に方でない最後を迎える事が多い

普段から 必ず人間は死ぬものですから、死と言うものを意識して、それに備えると言う事がある程度必要だと思います
考えてはいけない様な言い方が一般にされている  
死は縁起が悪い と排除してしまって、考慮の中に入れないという雰囲気がありますね
日本でもホスピス運動が起こってきている 癌の最終期をいかに尊厳を持って人生を全うして
貰うかと言う事ですが、その場合にいろいろな生と死の勉強をして貰うわけですが
今のような日本人の何にも死を考えないで、或は排除していると言う事が立派な人生を全うするための妨げになっていると言う事を感じました

上智大学に有名な先生(アルフォンス・デーケン教授)がよくおっしゃっている ドイツは敗戦国 ハンブルグに住んでいて(ひどく爆撃でやられたところ) 少年時代、ある日友達が爆撃でやられて真っ黒焦げになって死んだと言う経験をしている
彼は日本に来てからも生と死の問題を講演して歩いたんだけれども、 日本に来たけれども
同じように東京でもやられて黒こげになっているのに、日本人は何にも考えていないのんびりしていて(生と死の問題を)
立派な日本人なのにこんなに大事なことをどうして考えないのかと、良くないのではないかと思ったそうです
ドイツでもアメリカでも子供のうちから死を教えるそうです  
非常に辛くて、醜くて辛いものだと教えるそうです  
先生はこれでいいのかと思ったそうです  憂いていました
「死の学習」をしなければいけないと思います  
死に方の学習を知ることが大事だと本に書いています

具体的には人は死ぬ時にどのような死に方をするかとかその時にどのように感じるかと言う実態を学ぶことです
実態を学ばない人は、癌になれば痛くて苦しんで七転八倒して死ぬんじゃないかと考えていますが 実際はそうではない
長患いをすると非常にみじめで下の世話まで人の世話になる そんな人に迷惑をかけ、
自分もみじめになるのであれば、死んだ方がましだと言う風な考え方に非常に素朴に思う 
そういう思いだけに捉われてしまう  
癌になると大変だと恐怖心だけが募る 年寄になって醜くなると大変だと 言うような思いばかり
起こってきて良くない
生きざま、そのものが立派に成らない 
生と死をわきまえていればかなり違う 
いつかは死ぬものだと、言う自覚があればかなり違う 
実態を学べば、癌でもそんなに痛まない 
痛い場合も麻薬その他を使って、綺麗に抑える事はできる
  
死と言うものを学ぶと生、生き方が変わって来る  
生と死は表裏一体 死が解れば生が初めて判る
生きているということは死んでいないと言う事で
死んでいないと言う事がどんなに貴重なことか、有り難い事かが判る 
死を考えないと生きているのが当たり前、苦しいとなんだこんなに苦しいと浅い人生になる
自分にだけに捉われて、人の事が解らない、理解できない、親切もできない、助け合いも出来ない   自分勝手になっちゃう

やっぱり生と死の基本的な問題をちゃんと心の中で捉えないと非常に浅い人生になってしまう
大事な生をもっと大切に行きましょうと 自分の生が大切ならば、他人の生も大切だと 命を尊重しあわないといけないと言う事になる
そうすると世の中全体が違ってくる 意識の改革によって人間 立派に人生を送ろうじゃないかと
言うのが目的なんですね 
死ぬための備えではない 生きるための学びなんですよ  (良く生きるための)
30年前と今では理解がひろがっているが、理解する人は少ない
「生と死を考える会」がある (仙台ターミナルケアを考える会)平成元年に出来た ホスピス運動が始まった(英国が開始した)  日本では浜松が最初  そこに仙台でも勉強に行っている

医者が始めて、宗教学校の先生が音頭を取って、お坊さん キリスト教、天理教、医者、看護師、癌で苦しんだ人、及びその家族 有志が集まってスタートした(その時は私は入ってない)
平成4年に私のところに入会の話があった
志は持っていた、更に学んで そのうちに副会長になり 、現在会長になった
講演は127回目になる(25年になる)  お坊さんの話、癌の患者の経験の話、 癌の患者の家族の経験の話等 よりよく人生を理解して、立派な生き方をしようと 助け合いを 世の中に作ろうと それが目的になっている

終末期 死の学び、死と言うものがどのようなものかを知らないといけない 
どんな死に方があるのか  それに対してどう対応すればいいのかを学ぶ 
理想的な亡くなり方と言われている ピンピンコロリ   私は一番悪い死に方だと思う  
実際 ピンピンコロリの実態はどうかと言うと 元気な人が急に死ぬので
心筋梗塞 脳卒中 交通事故 こんなのがピンピンコロリですよ  一番悪い死に方ですよ 
家族がこまるし 本人も言い残すことが有ったと思う  残念な死に方だと思う
私はなにも心筋梗塞で逝きたいと思っていない、100歳迄元気に生きてある日コロッと逝きたいんだと  100歳まで逝きたいと最初から言わないと
今でもピンピンコロリがいいのだと神様が間違って心筋梗塞をさせてしまうかもしれないと 
冗談で言っているが100歳まで元気で ピンピンコロリというのはたまにはあるが
100歳まで生きる人は少ないし、100歳まで生きるとほとんど寝たきりになる、認知症になるのが多い  100歳まで生きることが難しいし、ピンピンではない

宝くじで6億円が当たるのと同じ それくらい珍しい事 夢をもつことはいいが現実と思うのは大変な間違い、極めてゼロにちかい 現実はそうはない 現実に備えなくてはいけない
癌は動転する 苦しんで苦しんで死ぬと思っているがそうではない  
痛みをほとんど感じない癌が1/3  ちょっとした薬で痛みを感じないで済む癌が1/3
非常に痛いのが1/3 その場合でも鎮痛薬を飲めば苦しまないで済む  
食欲がない、吐き気がするとかがあるが 財産をどうするとか、やりかけの仕事をどうするかとか
後始末はできる  皆さんにお世話になった、さようならという余裕はある(ピンピンコロリよりはいい)
天寿癌 という言葉は?  年配の人が癌になる 進行が遅い 3年ぐらいは死なないでしょう 
 
前立線癌はもっと遅い 10年しても何でもない
天寿を全うして(癌になってはいるが)亡くなる、それをいう  癌があってもなくてもいい  
95歳になると癌が有ってもなくても変わらない
好きなことをやって亡くなればいい  癌を意識しなくていい  寿命 男性79歳  女性86歳
健康寿命  健康では無くなったでも生きている  厚生労働省が出しているのが 健康でない期間男性9年女性10年少しでも年寄になって生活が不自由になると言うように厳しくとると、長くなる  
介護が必要になる 介護がないと生きられないと言う目で見ると 男性は平均健康寿命が77歳ぐらい介護が必要になってからの寿命、男性は2年  女性4年になる  実は恐ろしい事 2年ぐらいは誰かのお世話にならなければならない  

平均なので0の人も有るし10年の人も有る   たいていの人は覚悟しないといけない 
いずれはお世話になる これは事実ですからそれを支えなければいけない 
初めのところと終わりの所は誰かにお世話に成らなくてはいけない  
それが普通 それに備えようと自分がそうなったらお世話になる ならないうちはお世話する 
そう考え方をしたいですね 
それが支え合い   臨死体験 最近ではかなり詳しく研究されている
心筋梗塞で意識が無くなり心臓も止まる 死んだように見える 人工呼吸とか、人工蘇生機等を
使って良くなる 回復すると言う事がある  大けがで意識がない
水におぼれて意識がない そういう状況で死んだようになって、しかし助かったと言う事がある  勿論その間意識がない そういう人が助かった場合にその時にどうだったかと言う

経験を聞く それが臨死体験
それを丹念に調べて沢山の例を集めると共通な経験がある、一番多いのが浮遊体験 
例えば心筋梗塞で死のベットに横たわっているとする
心臓は止まっている  しかしその人の魂か意識かは解りませんが、それが浮き上がって天井の
あたりを漂って 上から見ている
自分が見ている 医者が治療していて、あー死んじゃったと言う様な事を観ている 
そういうのを観ていたと言う事を語る どうしてそうなのかは判らない

しかしそういう体験を語る そう現象があることは確か  体験した人は死が怖く無くなる 
これは大きい 人生の見方が変わって、博愛主義みたいな
皆を大事にするような 自己ばかりに捉われていることから解放されて、たとえばお金もちが慈善家になると言う様な事も報告されている
この研究はアメリカで盛んです   
どっちかと言うと、死を悩ましものと 避けなければならない恐ろしいものと それをびくびくしながら生きてゆくと言うんでは、いずれ誰でも死ぬんです
けれども、そういう生き方でびくびくしながら生きてゆくんでは、立派な死ではないでしょう
立派な死と言うものは世の中を楽しんで、感謝してそして終わると言うのが立派な死でしょう 
(ピンピンコロリではなくて)

それはどうしたら達せられるかと言うと死を学んで恐れなければ、そんなにくよくよしなくても済む死と言うものは避けられないものだし、自分でどうにもならないもので、死にたくないと思っても死んでしまうかもしれないし、死にたいと思っても死ねない人もいる 自分の手の内には無い
そういう風な自分だけに捉われないで、もっと大きなものに支えられて、いたり保たれたりすると言う理解があると、やっぱりそれが時期が終わって元のところに戻るみたいな、そんな感じになるんですね   
それが悩みを取って尊厳を全うして、悠々と生を命を全うしたと言う事になると思うんですね

一般的に言えば、健康で長生きして、そして大木が枯れてゆくように枯れてゆくと言うのが、一番いい死じゃないですかね   そういう死が望ましいと思います  
最後はボケたり、認知症になってもいいと思う  最後は心臓が止まると言う事でいいと思う 
要するにその間に、満足した生活 苦しみの無い生活 感謝の生活 が出来ればいいと思う  
そういうようにみなさんが迎えられるように我々はサポートする必要がある と思う 
癌にしても普通は悩むが最後はやっぱり諦めに到達するんですね 
死を受容すると言うか 其れを支えるのがターミナルケアーのホスピス等の役目なんですね
「千の風になって」 一つの人間の願望を表していると思う その願望があるからその歌を聞くと感動すると言う事ではないかと思う
それは己と言うものに捉われないで、もっと何か大きな力 、宇宙の力に同化してゆくというか、
そういう心境が歌われているのではないかそれは大事なことだと思う
命は遺伝子の働きでこの命が保たれている   この遺伝子を誰が作ったかと言えば 
人間ではない  何か作った力があるんでしょうね 

何か偉大なものが  村上和雄先生が遺伝子を研究しているが この方が遺伝子を研究していて、その働きに驚いてそしてこれを誰が作ったんだろうと疑問を抱くが答えは解らないで、何か偉大なもの サムシンググレート と言ってそれが作ったと言うほかはないという
それに畏啓の念を抱く  遺伝子も物質(炭素、水素、酸素等) それが出来て それが働いて、
人間が出来て 生命が営まれる
宇宙の力が作ったと それが終われば又ばらばらになり物質になり宇宙に戻って行くと言う之が
現代の科学時代の理解としてはいいのかなあと思っている
私は、自分のエンディングは自分の思い通りには成らないと思っている  
与えられたものがどれでもいいと思っている いただいたもので終わってゆくと思っています
できるうちは、やれる限り自分の仕事をやる