蓮池薫(新潟産業大学講師56歳)北での24年と帰国10年
北朝鮮から拉致被害者が帰国してから10年になりました 1957年柏崎市の生れ
中央大学3年の時に拉致されて、24年間北朝鮮で過ごしました。
2002年に10月に夫婦で帰国し、その1年半後に子供達も無事日本に迎える事が出来ました。
現在新潟県柏崎市にある地元の大学で韓国語を教えたり、翻訳家として数多くの本を出版しています。
北で暮らした24年間の生活や想い、具体的なエピソードをつづった本を昨年の秋に出版されました。
北で暮らした24年間の生活や想い、具体的なエピソードをつづった本を昨年の秋に出版されました。
本の内容は日本に残る決意した時の苦悩、望郷の念、脱走を考えた時の心の迷いなど率直な気持ちがつづられています。
大学の仕事が中心 この2,3年大学院に通いながら勉強したり、翻訳したり、ものを書いたりしています。
朝型人間なので朝は早い。
「拉致と決断」を出版 書き始めたのは2年前から 一度自分の生活とか思いを整理してみたいと思った。
拉致問題に進展がないので、皆さんに忘れてほしくないとの思いがあり、生の向こうの生活、
想いを伝えるのが一番印象に残るのではないかと思った。
各地での講演でも関心はあるが、矢張り向こうでどういう暮らしをしていたとか、どういう事をしたか等の皆さんの反応は全く違った。
35年前 柏崎に帰省されて、その時に本学部だったので理想は高かったが、サラリーマン
弁護士ではなくても何か独立したいと思った。
拉致の状況 海岸に行ったが、そこに居た人間を拉致しようと思ったのではないか、 視線の延長線で3,4人が歩いて来るのがいたが気にはかけなかった。
煙草の火を貸してくれと言われて、火を付けた瞬間に襲われた。
殴られて、目を殴られて視界をふさがれた。
家内はテープで口をふさがれて暗くなった後に袋に入れられたままゴムボートに乗せられて、漁船程度の大きさの船に乗せられ北朝鮮に連れて行かれた。
殴られて、目を殴られて視界をふさがれた。
家内はテープで口をふさがれて暗くなった後に袋に入れられたままゴムボートに乗せられて、漁船程度の大きさの船に乗せられ北朝鮮に連れて行かれた。
睡眠剤を飲まされたので一晩か二晩か判らない。 夜のみ走っていた。(疑われないためか)
訓練所らしき宿舎に10日間いて 目の腫れが治ってから連れて行かれた。
その段階では家内とは別々 女性は必要がないので返したと言われた。
招待所と言われるところに連れて行かれた。
基本は工作員等が勉強、自分を鍛えるために,個別教育される処、10軒~15軒が建っていて、一軒一軒は山で離れて見えないような状態 ,で全体が鉄条網で覆われていた。
ずっとそこで暮らした。
拉致されるまでの時間は 拉致という言葉すら知らない状況だった。
女性を狙ったものと思っていた。 人身売買の様なものなのかと最初思った。
男は処理されるのではないかと思った時期があった。
北朝鮮だと解って何かの間違いではないかと返してくれと言ったが、聞き入れてはくれなかった。
北朝鮮だと解って何かの間違いではないかと返してくれと言ったが、聞き入れてはくれなかった。
諦めるまでには2か月かかった。 半分パニック状態だった。 自殺の思いもあった。
何のために連れてこられたのか、も解らない。
本とか読めば状況も解るのではないかと想い語学をやろうと思った。
余りにも向こうに反発してしまうと命が危ないと思ったので(随時言われた)
身を守る、何とかしたいと思った。 勉強しろと言われた。
向こうの思想の問題とか、この国がどんなに素晴らしい国かと言う事を勉強させられた。
なにか目的をめざしていた。
逃亡した事件があり、監視することは大変なので 逃げづらい処に入れて、結婚させれば、子供もできるし 逃げられないだろうと、結婚させたのではないかと思う。
結婚したのは2年弱 子供も生れた。
逃亡した事件があり、監視することは大変なので 逃げづらい処に入れて、結婚させれば、子供もできるし 逃げられないだろうと、結婚させたのではないかと思う。
結婚したのは2年弱 子供も生れた。
北朝鮮で絆が出来始める。
家族を守らなければならない、子供もちゃんと生きていけるようにしなければならない、想いも有り日本に帰れると言う事を前提にするのか,ここでズーと生きて行かなければいけないのかと、悩んだと言うか、有ったんですが時間が経てば経つほど帰れないと言う現実に直面する。
子供のためにそういう思いを断ち切ろうと思った。
新しい絆のもとでこの国で生きていけるようにしようと思った。 在日朝鮮人として生活をする。
子供達までもそうするかどうかは、どうするか考えたが、日本人として育てるのは反日感情があったので同様にした。
逃げようとの踏ん切りはつけられなかった。 結婚後1年後ぐらいに海に行くことが出来て、
日本に繋がっている海だと思うと何か震えあがる感じがした。
2度目は15年後ぐらいに、中国との国境近くに行く事があった。
数メートルの川を越えれば中国に行ける状況にはあった。
この時にはなんとも落ちつかない想いが有った。
日本からの新聞、雑誌に触れる機会が有った。 家族の写真を観ることが出来た。
拉致被害者の会を知った。
こういう事があるのだとわかった(本来目に触れる事が出来ない記事 チェック漏れだと思うが)
嬉しかったが、ただこんなことで帰す国ではないと思った。
話題が広がると返って厳しくなるのではないかと危惧した。 より厳しい監視体制になった。
90年代 旧ソ連、東欧 社会主義が崩壊して、体制は維持したが貿易は断ち切られ援助は無くなり外交的にも非常に苦しい追い詰められて行くのを,肌で感じた。
90年代後半には水害とかいろいろ重なって、飢饉が起きてしまって、この国はどうなるのだろうとこそこそ話す様な状況が有った。
日本との関係を改善してそこに活路を見出すと、経済的に日本から賠償金を取って、国を立て直したいと言う思いが有って、恥ではあるのだろう。
けれど日本が求めている拉致問題に対応しようとトップが思ったのではないかと思う。
ゴムボートで漂流して救出されて北朝鮮に行った、との事にして対応の練習を何度となくやらされた。
小泉総理の訪朝の前に様子が変わってきて、拉致は認めてもいいとう話になり、 最後のぎりぎりになって日本に家族を呼び寄せるのではなく、日本に行って来いという事になった。
(嘘をつかなくてもいいと言われた)
(嘘をつかなくてもいいと言われた)
子供は残したままであった。
子供は連れていけない事は何となく解って、子供は置いてゆけと言われた。
強制する様な行って来いと言う事でした。
最初は子供がいるので、兄とも口論になったが、子供の将来を考えた時に、子供は日本人として
知られてしまったし、日本は子供達が生きていけると言う感触があったので、子供達を連れてきたらどうなるんだろうと考えたら、プラス思考になった。
日本に留まっていいのではないのだろうかと思った。
返してくれるかどうかが問題 北が何故我々を帰したか、ここまで得るものを得ていない。
当の本人を帰しただけでも大きな恥をかいた、次に子供を返すのは恥ではないだろうと
それで目的が達成できなら時間の問題だろうと感じた。
もういいなりになりたくないとの強い思いがあった。
子供の将来にプラスになると思ったら、良いと思った瞬間にそっちの想いがぐんぐんと出てきた。
24年間いいなりになって自由を束縛されてきて、ここでふんぎって賭けに出てすべてを得る方に
かけて見ようと思った。
そうなるとそっちの方にしか思考が行かない。
大丈夫だと言い聞かせて家内に残るぞと言った。(決心がついてから話した)
母親はまず子供の事を考える、最初はたじろいたが、私を信じてくれて、1年半辛い思いがあった
が 子供達が帰って来る事が出来た。