平良進(俳優78歳)沖縄芝居を生きて
宮古島出身 劇団あやふねを主催 沖縄芝居の後進を育てる活動をしています
妻はお婆さん役としても有名な平良とみさんです
現在 NHKの連続TV小説では「純と愛」ではなすなさん演じる 純の御爺さん役として出演しています
歴史から芝居に対する想いを聞きました
俳優、演出家。劇団「綾船」主催。妻も俳優の平良とみ
「綾船」は、琉球弧の伝承にあるニライカナイ(神の住む海上はるかな遠い国)から、夢や希望や
財宝を積んでやってくる船のことです
昭和18年の時に4年生 疎開同様に台湾に行った(御爺さんお婆さんに連れて行って貰った)
疎開先で御爺さんお婆さんが亡くなってしまった
おじさんのお世話になり、終戦を迎えて、宮古島に帰って来る 学校へ行かしてくれる余裕が
なかったので、農場で働く(馬を養う)
馬の世話をしていると、ある日、馬に噛まれた 馬は養えないと思い馬の世話を止める
板前の勉強をしようと、料亭に行った
そうこうするうちに劇団が来たので見に行った(面白いとは思ったが、やろとは思わなかった)
稽古を観ていたら 自分と同じような年頃の子が雑用をやっていた、聞いてみたら劇団の者だと言った 仕事が多くて大変だと言われた
何気なく私にもできないものかと言ったら出来ると言われた
座長のところに行って頼んだら、座長の奥さんが何か言っていた(沖縄の言葉なので宮古島の
言葉と違って解らなかった) 渋っているようだった
宮古島の子は言葉が違うので、使えないと言っていたそうだ 役者に成りたいとは思わなかった
雑用係 巡業するがそれでも出来ると言うのなら一緒に来るようにと言われた
雑役係は必要だった 舞台装置、小道具 照明装置等 いろいろ大変だった
その後 子役からスタートする 劇団の中に30名近く居て 毎日喋っているので段々沖縄の言葉が解る様になった
他に新人が10数名入ってきたが、言葉が出来ずに直ぐに止めて行った
芝居言葉 沖縄言葉も又違っていたのでそれも出来ないといけなかった
尾永小次郎が座長だった 小さかったから子役から大人、老人の役、女役でも何でもこなせる人だった
沖縄の人間だと一目で解るような役者でないといけないと思っている
私が芝居をするようになったころは妻は人気女優に既になっていた 憧れの人であった
若かったが、直ぐにお婆さん役をやる様になった
老け役を巧くこなす人だった 私と共演するとしてもお婆さん(妻)と子供(私)の役だった
芝居自体も台本は無くてあらすじを作って 口で全部をすり合わせて行く 肝心な言葉だけはこう
言えと言われたが、後は全部自分で考える
そこで生まれた芝居は面白いものに成って行く 18歳ぐらいからは主役をやる様になった
20歳頃からはいろんな役をこなす
沖縄本島に進出した(それまでは宮古島、八重山でやっていた)
客席は露天だったが(野原にテントを張ったいた感じ)雨が降ったら開けられない
冬になると寒いので客が少なくて大変だった 劇場ができて安定してきたと思ったら、映画が進出してきた 劇場が映画に変わって行く
当時30以上あった劇団がバタバタと倒れて行く (劇場も100有った)
1956年に退団して、ときわ座に移る ときわ座は一味、ふた味も違っていた ときわ座に憧れたあの劇団は地獄だと言われた
地獄に鬼がいると言われた それが座長だった
聞いて行きにくい思いがあったが、思い切って行ったが聞きしに勝る地獄だった
厳しかった 客席からは解らないようなミスを見逃さず、終演後、ミーティング 一人の為に全員が
夜中の3時まで行う 原稿を書いてきて、寝ているところに撒く
「舞台はどんな名優が出てきても よその人がしくじったら、助けようと思っても助けられないんだよと 自分の力でしか 出来ないんだからと心にそれを心得よ」 と書いてあった
お前の仕事はなんだと 座長は何時も客席から見ている
役を突然変更させられる時が有って、冷や汗ものだった こう言ったことで物凄く鍛えられた
映画やTV時代が来て昭和45年に解散に追い込まれる
その時には映画とは戦ったが、TVには勝てないと思った
各地に市民会館が出来てきてそこで出来る様なものを考えた
うしお劇団を若い人だけで作った
新しい劇をやろうと思った
沖縄 歌劇(新派の流れ)とは違った流れ テンポの速いものをやる様になった 10年間続けた
風俗、習慣 沖縄も近代化で変わっている
変わった沖縄を再現するには芝居しかないと思っている
沖縄で残したい様なものを出せるのは芝居なら出せる
そういうものを大事にしてゆきたいと思っている 今の若い人は昔の面影は残っていない
舞台では再現できると思っている
昔の人の言った言葉 「意見と言うことは耳をきちっと開けて、心に留めなさい」