2013年2月20日水曜日

野呂幸司(建築事務所社長74歳)   ・10人の山仲間へ償いの50年 2

野呂幸司(建築事務所社長74歳)・10人の山仲間へ償いの50年 2
身体障害者第1種3級にも係わらず、スキーで、一般の部、パラッリンピッックでも優勝されている  
元々スキーが非常に好きだった 
義足になって始めてやったのがスキーだった  巧く歩けないのに スキーを担いでゆく 
1歩が10cm、20cmでも とぼとぼとスキー場あるいてゆく 
スキーと言うものはエッジに体重を乗せる事によってスキー板は曲がるが、足首が全然動かないので膝でしかできない 
そうするとエッジングが右、左出来ない 身体だけひねる 捻ってもスキーは回らない 

そうすると義足の中で脚がぐっとそれる そうするとべロッと皮が 剥けてしまう  
そうすると痛くて歩けない  それでも一杯時間をかかって家に帰って来る  
そうして又スキー場へと通った
やっているうちに テールが回って、これだと思い、段々良くなってマスターした  
今はちゃんと滑れるようになった
当時教員をやっていたので国体で5位になった 
寛仁親王殿下が身障者の大会に出ろと言われた

どうして今さらといったが、「いいか、底辺を広げるためには、頂点を上げるんだと そうすると底辺は広がるものだから 底辺を広げるために手伝え」
と言われた  なるほどなと思ってやった いまでいうパラリンピックだった   
1980年 第3回パラリンピックに日本で最初に参加した
行って本当に良かった  外国の選手は何でこんなに明るいんだろうと、感激した 
それに比べて日本の障害者の暗さが判った
日本の福祉は目が見えない 脚が動かないのだから 不自由でしょ だから外にでないように
しましょうと言う様な世界,だからそのためには毛布を、布団を用意しましょうと言う様な福祉の形態です

ところが北欧3国は最も進んでいる  自分の有る能力を最大限活用しなさい 
そのために応援する そして世の中に係わって行きなさい  
そうすると人のためになるんだからという福祉なんですね  それを観た時には吃驚しました  
スエーデンの女の人 片足がない 濃い茶の儀足を履いている  
それを観るとあっちこっちのステッカーが張ってある 自分はあっちこっちのスキー場に行ってきたことを宣伝していた(普通身障者は本来隠したがるのだと思っていたが) 
明るい福祉をめざして行きたいなあと思った

ようやく日本でもいい成績を残すようになってきた  最初に参加した時には44歳だった
障害者は多い  事故でとか、病気でとかで障害者になった   
目の不自由な人のスキー大会を観た時には吃驚しました
その大会では一切音が消える  一般のスキー大会では音楽とかが、鳴って喧騒としているが  
シーンとしている    2人で滑って来る  健常者と一緒に滑って来る  
「アッップ、ダウン、アップ、ダウン」、「レフト、レフト」と指示する  
そうするときちっとその通りに滑って来る   あとは風の音しかない  
ゴールに入ってくると、そうするとワーッと歓声と拍手が湧いてくる 
日本では見たことが無かった 吃驚した  

スキ-ヤーを囲んで抱き合って騒いでいる  
これなんだとこれなんだと、これが本当の本当の生きる道だと思いました
盲導犬 犬がいる事 育成が大変なので盲導犬のチャリティーショーやっている  
光を失うより私などは何でもないと思った 
日本はもっとこの様な方向にもっともっと力を入れないといけない  
今でもスキーをやるので時々は皮が剥ける 
その時はビニールで足を包んで風呂には入るようにしている(私の切断なんて序の口です)

岩見沢に身体障害者の施設がある そこに講演に行きました  
そこには一杯身障者の人が来てくれていた  脚がない人 両手がない人
無くてもどっか五感の、なにかがある  
或る人は口で細いパイプをくわえてパソコンを操作する  
そしてポスターでも何でも作る      そうして売って生活費用の一部にしている  
そういう事を一生懸命に応援しているのが其の施設なんです
声に成らない声が顔だけで何か言っている なんだろうと思って聞いたら「ありがとうございました」というお礼の動作なんだと言われた

我々なんかもっともっと緊張感を持って世の為、人の為に係わってやらなければいけないだと、
つくづく思いました
そうしたら五体満足でちょっと何かに挫折した挫折したからと言って自分の命なんかを粗末にすることは絶対あり得ない
一回しかない人生なんだからとことん、最後まで自分の命を大事に大事に、して世のため人の為に係わって行く そういう生き方を教えればいいんですよ

死んだ人間に対しての償い 居なくなってからの家族の状況はどうなっているのかと言う事に対して、張り裂けんばかりに思います
不可能を可能にすると言う様な事を生涯やっていきたいと思います  
不幸にしてその後の人生を居られないと言う事の為に少しでもお手伝い出来ればと思っています
遭難の後、リーダーがゆえに遺族の方から責められる事は当然有ると思いますが、私は遺族に
いろんなことを言われた   それは当然だと思います 
自の子供達を想えば思うほど、私がこういう風にしている事に対してのギャップは物凄く大きい
私に出来る事は矢張り自分の命と行方不明になった命と、矢張り誰が見ても、野呂は頑張っていると 純真に生きてるなあと言われるようにしたい
脚がないから出来ないと絶対言われたくない
脚の有るやつよりも、頑張ってるぞと言う様な形に少しでも近づきたいと思っている

教員になったときに教室で教えている時に、遺族の方がいきなり教室に表れて、ガラッと戸をあけて、自分の息子の名前を呼びながら「返せ、返せ」と私の胸倉をつかみながら、叫んできた  私をガンガンと叩いた  はけ口が無いので私の処に来たんだろうと思った
(学校までは遠くてタクシーで来た)
他の遺族の人もこの様に直接は来なかったが、大なり小なり、そういう気持ちを持っていると思う 
だから私はこんな弱い人間だと絶対言われたくないないので 仕事の面でも、人が駄目だよと
言われても 何か実現できるように何かないかと思ってやっている   
保険会社でも優秀な成績を収める  その後新しい会社を作った  27年やっている  
私の思想の基本は民間資本でこの国、街作りをやってゆく
それに対して役所は何をするかと言うと 、内容のいい物に対しては規制緩和で応援する 
私は公共工事を増やせと言ったことは一度もない
公共工事は3.11では無いが、何があるか判らない そういう災害に対して備えるようにしておく 
又この国をこんなに素晴らしくしてくれたお爺ちゃんお婆ちゃんがいるから我々がこうやって生きれるのだから、それに対して、お爺ちゃん、お婆ちゃんが安心して生涯を終われる様なかたちにする

それが国の役目だと思います 住宅は一杯あるが、しかし今は高齢者が増えて来る  
そうすると買いもの難民が出て来る
宅配、中心街から離れたところに利便性のある施設を設けていろいろ出来る複合施設を作ったらいいと思う
一番大事なのは会議所が判断する、行政が判断するのではない 
そこに住んでいるお爺ちゃん、お婆ちゃんが判断する  ここにこんなものが欲しいな
と言う様な事を行政に認めて貰って、実現すると言う事が大事だと思う    
公共工事は私はやっていない

民間で街作りはやっている  年寄が感謝の気持ちが出てこない様な街作りは駄目 
昨年父は105歳で亡くなったが、父に70歳になったときに「70歳になった」と言ったら「まだがきじゃないか」と言われた
樺太で生まれて 王子製紙のでかい工場が有って父は材木を運ぶのに馬車を使うが父は馬具屋をやっていた
小さい頃は坊っちゃんで育った 小学校の1年の時に 父が赤紙で連れていかれて行方不明になった    死んだものと思っていた 
最後の引き上げ船、小笠原丸に乗って樺太から帰るつもりだったが、乗れることが出来なかった 
しかしそれが良かった  ロシアの攻撃に合い沈没する(1700名ぐらい死んだ)
間に有ったら私も死んでいた 大鵬もその船に乗ったが、稚内で下船した下船していなかったら
大鵬は留萌沖で死んでいた
私は帰れなかったので、ロシア人と一緒に暮らしていた(家が大きかったのでロシア人を呼んで3家族で暮らした)母親は一生懸命ロシア語を習って通訳していた 3年間暮らした
いい思い出がいっぱい出来た  米ではなく、ほとんどはロシアの黒パンだった

北海道に引き上げて来る 駅で「幸司」と呼ぶ声がするので振り返ると、軍服をきた父親だった
父親は樺太から捕虜でシベリアに行って、朝鮮に来て、朝鮮から佐世保に上がって、ずーっと北に来て北海道の江刺にきた  その時に駅でばったり会った
お金が無くて父は靴修理業をして、母は「いかむしり」 加工品にする その手伝いを兄弟皆で行った  それで生活費を稼いだ
私の山の靴は父が軍靴を直して山の靴にする 
ヤッケ、オーバーズボン、から着るものは父親に作って貰った
食べ物が無いので山で野草を取った(それが山との結び付きの始まり) 高校で山登りの練習を
やっていてお前もやってみろと言われてやったのが山岳部へ入るきっかけとなった  
当時の地図は山の地形と実際に行ったときとでは全然違っていた
当時の函館東高校は北大山岳部に匹敵していた  大学に入って山岳部に入って 地質学を専攻した (山に登れるように)

足を切るまでは全部 山々山だった  山と言うのは 山に行くと新しい自分をどんどん発見する必ず乗り越えられる という事が解る
自分で自分の装備を考えてゆく  有るものを最大限に生かす
「切に生きる」 自分も、貴方も 同じ条件ではない  全部別々の条件
それぞれの人がそれぞれの立場で今与えられたものを、最大限一生懸命 この世に係わって行く事が「切に生きる」ですから
会社経営も山の経験が生きている  単独行動、パーティーを組む場合があるが  
最終的には自分の判断だと思います  判断の責任は全部自分の責任

そのためには自分がこの問題を乗り切らないといけない 人の力を貸してくれない 
信頼はチームワーク  生きかたは信頼ですよ  周りに一杯いる  何が大事かと言うと信頼  
相手も信頼  こっても信頼 お互い持ちつ持たれつしないといけない 
一回しかない人生 頑張って最後の最後まで アー俺は生きた 俺はやったよ 
親父、おふくろに言いたいと思っています 
自分の人生を粗末にするな と言いたい(特に若い学生に) 一回しかないのだから
最大限 とことん努力する 頑張ることが生きた証ではないでしょうか