錦織健(52歳)オペラの楽しさ全国に発信中
昭和35年島根県生れ 国立音楽大學卒業後 文化庁オペラ研修生としてイタリアミラノへ留学
その後民間財団の留学生としてオーストリアのウィーンでも
研鑽を積みました 帰国後 オペラや宗教曲のソリストとして高い評価を受けてきます 紅白歌合戦、コマーシャルにも参加する
音楽の楽しさに目覚めた少年時代から 転機となった大学時代への体験を中心に伺います
第17回ジロー・オペラ新人賞、第4回グローバル東敦子賞、第1回五島記念文化賞新人賞
、第6回モービル音楽賞洋楽部門奨励賞など数々の賞を受賞。
12月は本当に忙しかった (第九交響曲) 夏場ではやらない 興行チケットが売れない
歌は小さい頃から好きだった(アニメソング等) 両親は学校の先生 母親は音楽を教えていた
(家にピアノがありいじっていた)
自然の遊びの世界には囲まれていた 中学3年生の時に合唱部に誘われた 楽しさが判った
地方のNHK合唱コンクールに参加した
男性陣が巧くなくて、惨敗して悔しさがあり、リベンジの思いで高校の時に合唱部に入ってコーラスを続けた
女性のみの合唱はレベルが高いが、混声合唱になると男性のレベルが低い傾向に有った
男性を運動部からスカウトして行った
自分としては自信があったが、コーラスとなると駄目だった
人と合わせる声の感じが必要だった
島根県の県大会で優勝した 高校3年間 コーラスのことばっかりだった
勉強してなかったので音楽関係の仕事が出来たらと思っていた
先生について勉強した
不思議とピアノの勉強をするのは楽しかった(4時間でも5時間でもできた)
とにかく頑張って国立音楽大学を受けた
母親は音楽に進むことに関して喜んでいた プロの世界は周りにプロの世界を知っている人もいなくて、想像してはいなかった
受かって大変さが解って心がへこんでしまった 一人暮らしは楽しかった (寂しさはなかった) 声楽の難しさを感じた(皆巧く感じた)
歌は駄目なので音楽史だとか頑張って将棋とかも始めた 歌は諦め気分で、将棋に熱中した
学校では負けなしのレベルになった
歌は頑張ったが将棋ほどには頑張らなかった 大局観を将棋で戦略的に考える事が出来る
卒業する時期になって、先行きどうしようかと考えて、自分の陣地を固めてから 自分の武器は、
弱点は何かと考えて 弱点を先ず良くして行こうと考えた
テノールだが、低い声が出無くて それを克服しようと弱点ばっかり勉強した 歌も真剣に考えて
もうちょっと東京で頑張ろうと思った
客観的に醒めた目で自分の事を観ることが大事だと思った
声楽はスポーツに近いところがあり 肉体管理 、トレーニングとかも関係してくるので
将棋の考え方も導入出来た。
人生の身の振り方をあたふたして決めてきた
見切り発車してきた 人生って見切り発車なんだなと思い始めた
オペラ歌劇団に入って、そこで頑張って、文化庁オペラ研修生としてイタリアミラノへ留学することが出来た
無理だろうなと思いながら始める事が多い 出来ることから補強してゆこうと思っていた
やっているうちに有る時に気が付いたら歌を歌って生活していた
これがプロかと 思った(意識していなかった)
駄目かなと思いながらあがいてきたという感じですね 歌っている時はそこそこ楽しかった 自分のコンディションは大事にしないと駄目 身体が楽器なので 又身体は老化するので
いろいろ頭を使ってスポーツ的なケアをしなくてはいけないので気を使う
同じことをずーっとやらなければならないので、楽器が違ってしまった時に、どうするかが大変 トレーニングが必要 完成はない
研究しがいがある 正解は無いのでいつまでも研究出来るので飽きることはない
何で思い通りに成らないんだといういらだちはあるがスポーツ選手と同じだと思う
どんどん変わって行く自分の身体と向かい合いながら、去年はよくいったのにどうして今年は巧くいかないのだろうかと,いろんなトレーニングをしているのだと思いますけど 喜びと悲しみが同居しているんですけれども、飽きない現象がずーっと続いていると思います
中学では陸上をやったが、陸上をやっての役に立ったのは 強いものには勝てないと思った
人一倍練習はしたが、集合写真を取ると他の人達とは違っていて弱弱しい感じだった
走るだけなので中々補えないところがあり、陸上では向かないと思った
声楽は集合写真を撮ったら、似ている様な体形なので 向いているように感じた
向いてないところで頑張っても巧くは行かないと思う