2013年2月19日火曜日

野呂幸司(建築事務所社長74歳)   ・10人の山仲間へ償いの50年

野呂幸司(建築事務所社長74歳)・10人の山仲間へ償いの50年 
サハリン出身ですが、戦後は両親と函館に移住して、学芸大学、函館分校の山岳部に入り部長として活躍してきました。
37年暮れ北海道学芸大学 函館分校4年の時に 山岳部仲間10人と大雪山の最高峰旭岳周辺を歩く冬山訓練にチームリーダーとして参加しました。 
しかし合宿中に猛吹雪に見舞われ、部員が次々に倒れてゆく中、凍症を負いながらも、九死に一生を得て下山できたのはリーダーの野呂さん一人。
多くの非難を浴びつつ精一杯生きているの野呂さんの人生は、亡くなっていった山仲間への償いだと言っています。  
 
その後身体障害者となった野呂さんは若くして亡くなった仲間10人に励まされながら、生きてきたそうです。
備えあれば憂いない。 山で一番大事なのは精神力。  
いくら体力が有っても精神で参ってしまうと その体力が正常な体力が持続できない。
私に匹敵する様な体力が有っても一番最初に参っていましたもの。 
野呂さんは しっかりした足腰と頑丈な身体を持っている。  
小学校のころは体も小さく、1周4kmの公園を毎日走っていた。 

校内マラソンで3位に入って、それは自分でやろうと思った事をやり抜くと体力でも、何でも付いてくるもんです。
私の経験がどなたかの役に立つのであれば、話していかなければいけない、伝えていかなければいけないと思います。
一回しかない命、人生をいかに大事にするか、それを山で得たことを通してみなさんにお伝え
できればいいと思います。
今から50年前 昭和37年の暮れから38年の1月1日の出来事  鮮明に覚えている。 
しょっちゅう死んだ仲間は夢に出て来る。

死んだ仲間が私を一生懸命励ましてくれているのだなと思います。  
後輩に言ったことは 縁が有って 皆で持って繋がったのだから 山に行ったのだったら 
その山の中から何かを得る事 山を通して人を知り、その人を通して 自分の人生を築いて行こうじゃないかと 言う事を良く仲間に言った。
 
1月1日 生環したのは私一人だった。  同じ条件でみんな頑張って唯一 私が残った。  
仲間には申し訳ないと思ったが、仲間はみんな同じ体力で、同じ精神力であったら、皆帰れたと思う。  
自分自身はそういう環境を乗り切ったが、それがこれから10人の黒い十字架を背負って生きなければならないと言う戒めと励みになっている。  
皆全員が一生懸命、頑張った。 しかし、一人減り、二人減り、三人減り ということで最終的には私一人になり残った後、テントの無い中で一泊して下まで降りてきた。  
その経験は、その後の人生に大きな励みになっている。

12月24日に山に入った。  
雪は多い。 二手に別れて B班のリーダーとして 白雲岳でA班を待っていた。
山の中でNHKのラジオで気象情報を聞きながら天気図を書いていた。  
日本海側に低気圧が発生して荒れるのが解っていた。 
山の中に居るものなので出来るだけ降りたいと思っていたが、標高が2000m有るし、緯度が高い。予想できない様なそういう気象状況、猛烈な吹雪の中なので呼吸するのも困難 見る見るうちに皮膚が凍ってゆく。  
白雲岳の頂上までは天気が良くて、それから荒れだす兆候が出てきた。
その前に、旭岳の頂上を通って 石室に行けば予め用意しておいた食糧がある。 
 
そこにどうしても行かなければいけない。  そのためには、多くの山を越えなければいけない。 
何で山に登ったんだと、当時の新聞に書かれた。 すぐに下界に戻ればいいんじゃないかと
しかし本州の山と違って、北海道の旭岳は物凄く広いわけです。
降りるためには大きな旭岳を登って降りて行かなければいけない。
途中でブリザードに合い(猛烈な雪の嵐)、途中で呼吸困難になる。 動きがとれなくなる。  
下から風が巻いてくるので顔は上げなくてはいけない。
何一つ風をさえぎるものは無い。  -30℃の温度計を越してしまっていた。  
目は開いてられない。 鼻はねっぱってしまう。 口は呼吸困難 風雪に耐えていると
極度の緊張感と空気を吸えない様な嵐の中で人間は段々精神的に弱い物なので、正常な状況で無い状態になる。  
手袋を取ってしまったり、帽子を取ってしまったり、という正常な時だったら絶対にない事をやる。 

極度の緊張感と空気を吸えない様な嵐の中は手袋を脱いでしまう。
見る見るうちにバーっと真っ白になる。  そうしているうちに水膨れになり(黄色い)それがしばらくすると真っ赤になり 真っ黒になる。  壊疽 
人間の身体は最後にああ云う風うになるのだなあと思った。  歩く事が出来ない。 
そこに雪洞を掘った。 
(11人いるので雪洞2つ掘ろうと思ったが、掘っている時に中でくっ付いて仕舞って 1つになった)  奥に弱い人を入れて、雪洞に入った時には外の音が聞こえない。  
避難出来たと思っているうちにゴーっと凄い音が聞こえてきた。

上の方を観たらスーッと黒い線が走った。 
なんだと思ったら 物凄いブリザードが中に入ってきて、あっという間に天井が崩れ雪の中に埋まった。 
私自身はアノラックは9枚持っていた。 
テント張れとか言っていたが、バリバリに凍り、テントを張れなくなった。  
あれっと気がついてみたらヤッケが無くて無意識に腰に巻いていた。
その時のとんでもない状況は初体験。  日本海では漁船が随分遭難している事を後で知ったが
寒さに震えながら夜中 テントを張ろうと思ったがテントはバリバリに凍ってしまって駄目なので、私がテントに入って、テントを持ち上げて伸ばそうと思ったが、テントの中が酸素不足になり、
ピッケルで破って外に出た。  
最終的にはテントをあきらめろと、俺を中心にみんな集まれという事で、車座になって歌を歌ったりしていたが、私が考え事をして黙っていると 野呂さんが変だぞと周りが言いだす状況だった(私が話をしたりしている間は冷静だったが)

眠ると駄目になる(致命傷になる) 皆一晩持ちこたえた。 
 朝を迎えて、旭岳頂上に向かって行った。  
頂上には全員いたが、頂上で有る男が烏だ烏だと言って(極度の緊張による幻想)さわぎだした 。一人が噴火口に滑り落ちた。
私が助けようと降りて行って見つけたが、虫の息だった。  
目印を置いて戻ったら半分がいなかった。 
サブリーダーに聞いたが解らないという さっきまでいたんだけどなあと、先に行ったかもしれないと後で解った話だが烏が飛んでいると言った男が弱ったので、元のテントの処に戻そうと何人かが行ったが 結局自分達も体力が無くなって戻って来ることが出来なかった。
我々は知らないので、石室をめざしているものと思い、我々も石室をめざしたが、結果的には風に流されて、戻ろうと言ったがそこでもおかしくなる(家族の名前を呼んだりする)人間がいた。
 
雪洞を掘ってそこに居た。  もう一人元気な人間がいて先に行ってしまった。 
私もそれを追いかけた。  そこで日が暮れて、そして夜を迎えた。  もう一泊した。
雪洞を掘る元気もなく とど松の葉を持ってきて、敷いてそこに寝た。  
兎に角ぐっすり寝る事だと思った。  隣では田中が寒い寒いと言っていた。
夜明けとともに 3時頃、目が空いたら身体が凍って全然動かなかった。 
田中は(もう一人の名前)寒い寒いと言って眠れなかったとの事、ようやく這って行って 松の木につかまって立つ。 手を離すそうするとバタンと倒れる。 

そうすると関節が回るそうするといくらか温もりが出る。
其れを何回もやっているうちにちゃんと関節が動くようになって、田中にもやれといったが寒い寒いと言っているだけ 引っ張ったが最終的に動かなくなった。
一人でようやく降りて行って 送電線を見つけられて(その間に何度も枯れ枝と見間違えたが) 
これを頼りに行けば 勇駒別温泉に着けると思った。
その間一切止まらないで10時間歩き続けた。  
倒れたらルートから外れ、両親が最後の最後まで探すだろうと、そうさせないための一念があった 何としても俺は帰らなければいけない。  

たどり着いた時には足腰は駄目だったが意識はしっかりしていた。 
白雲荘があり、そこから女の人が「そこの人何やってんの」と声をかけてくれた。 
返答をしようと思ったが、雪を食べてきているので 声に成らず、声が出なかった。 
二人、人がいて、大学のフュッテまで連れて行って貰った。
私は先に行った別れた人達が勇駒別温泉に降りたと思っていた。 
石室から降りてきた人がいて聞いたら食料はそのままだと言っていたのでどうしたんだろうと思ったが、ようやく遭難をしたことが判った。
装備は当時は貧弱だった。  オーバーズボンは父が作った。 自分で作ったりしていた。
山を降りてきて、凍症にかかっていたが、 雪が深かったので歩けた。 
道路に降りた途端に歩けなくなった。 

ここまでは周りに雪があるから歩けた。(アイスバーンの様な状況だったら駄目だった) 
旭川の病院にいったら、針を刺しても痛くなかった。 
函館の新しく出来た病院で足を切断をした。 
(切るのではなく関節で外す  くるぶしを残す 皮を腿の皮を取って移植する 其れが再生)
しかしももの皮は薄いので 皮がついた後にビール瓶で足の皮を叩いた。 強くしようと思った。
「自分が今その立場で与えられた事を、最大限に生かして生きるのが人生ですから」 
自分が足がないのに足のある人のまねをしてもしょうがないし、今あるものを最大限にいかす。
それを最大限に生かして一生懸命に生きる事 それが「切に生きる」事だと 瀬戸内寂聴さんがある本で言っていた。  それと同じだと感じた。

放送終了後「遭難経過報告書」 「遭難を省みて」の本を頂く
「遭難経過報告書」からの抜粋
「雪洞の天井に穴があき、みるみる薄紙をはがすように風が全ての天井を吹き飛ばす。
着の身着のまま、みな車座になり、夜を明かす。 
山がごうごうとなり、冷たい強風が容赦なく吹き続け、空腹と睡魔に襲われ全員で歌うが長く続かない。  
眠れぬ夜を励ましあって長い長い夜を耐える。

12/31 夜は明けたが吹雪いている。 足の感覚は鈍いが指は動いている。 膝に力が入らない。
屈伸運動をして歩けるようになる。  
6時30分 全員にピッケル、ストックを持たせ、野呂を先頭に登る。 7時過ぎ頂上に到着する。 
一人が突然カラスの幻想を観る。 弱った一人がスリップし、噴火口に200m滑落する。  
野呂が噴火口に降りていた1時間ほどの間に5人のメンバーが消えた。
石室に降りたのだと思い、後の5人で歩きだすが、激しいブリザードで石室にはたどり着けず、野呂が掘った雪洞に弱った3人を寝かす。  脚先は凍りつくに痛み、手は石ころのよう。
スキー用の皮手袋が枯れ木のように手に凍りつく。
一瞬雲間にたんねの林が見え、元気な田中君が勇駒別温泉に向け下山を始めた。
深い雪のラッセル、何も見えないガスの中、日が暮れた。  
松の根元の雪を踏み固め身体を寄せ合って寝る。 
 
1/1午前3時 木の根につかまって身体を起こし、屈伸運動をする。 
しかし田中君は立ったまま動かない。  凍傷のため歩けないのだ。 
彼を背負い歩きだすが、途中で力つき、背からずり落ちた。 
昏睡状態に入ったらしい。 ピッケルを目印にたて、出発する。
腹がすく。 顔を押し付け雪を貪欲に食べる。 一歩進むごとに胸まで潜る。 
腰をおろして眠りたい、こんなところで死んでなるものか。 
もう助かりっこない身体が駄目になっているという気持ちが頭の中を走る。 
目にしみるような青空を目にする。  
磁石と頭の中に描いた地図とを頼りに休まず歩き続け、やがて送電線の電柱を見つけた。

「遭難を省みて」から遭難原因が大きく2つ書かれている。
①雪洞の崩壊・・・二つ掘ったが結果的に繋がってしまった。
 厚いところで160cm 薄いところでは30cm  雪質も粉雪が混じって、乱気流が伴う40mの風に  は耐えられなかったものと考えられます。
②気象判断の甘さ・・・山にいる間、毎晩気象通報を聞いて天気図を作り、朝鮮半島付近にある低気圧をキャッチしていました。  
天候の悪化は予測できたとは言え、氷点下30度以下、その上想像を超えた強風吹きすさぶ中では、人間の限界を超え、打つ手が次々と不成功に終わり、遭難へと突き進んでいったのが一番大きいと思います。  
気象条件が悪化に伴う、リーダーの判断と処値がパーティーの行動を決定付けることになり、リーダーとして弁解の余地がありません。

今なぜ45年もの沈黙を破り、明らかにしたのだろうか。「この頃、子どもの自殺など、いのちが
軽視されている。
「いのちの尊さを知らせたかった」。と平成19年東高関東青雲同窓会の挨拶で述べている。
ある日、お袋の作ってくれたおにぎりを食べながら公園のベンチに寝そべっていると雲がどんどん 形を変えて動いていく。
『そうか、自分は変わらなければいけないんだ』と直感し、そうしたら力が湧いてきた。