池田澄江(NPO法人中国帰国者・日中友好の会 理事長)・三つの名前で生きて(2)
今村明子の名前は1982年に国籍取得のために付けました。
日本に永住が出来て、中国から主人も来てもらいました。
正式な仕事を探さなければいけないと河合弁護士に相談しました。
河合弁護士は残留孤児の戸籍を取るための仕事を進めていました。
河合弁護士に仕事の手伝いをすることになり、使用期間が2年間在り、そののちに正社員になる様に先生に相談しました処、承諾してもらいました。
厚労省の残留孤児の肉親捜しが代々木のオリンピックセンターで行われていた。
1994年12月14日の肉親探し説明会での通訳をした後に、喫茶店で60歳台の女性と出会いました。
姉も中国もに残されていて、話す中で同じ土地にいたことが判りました。
段々話すうちにどこの家に住んでいたのかを絵に書きました。
まさか姉ではあるまいかと思ったが、連絡先を確認して河合弁護士と相談して、DNA鑑定することになりました。
1995年2月にDNA鑑定してもらい、結果が1996年7月31日でした。
姉妹であることが間違いないといわれました。
51歳の時でした。
戸籍には死亡と書かれていました。
本当の名前は「池田澄江」と云う事が判り、心から安心しました。
親に逢いたかったが、母親は半年まえに亡くなっていました。
養母は立派な人で養母の思想、想うことが私に伝わってきたので養母には本当に感謝しています。
戦争がなかったらみんな親がいる、兄弟がいる、自分の幸せな家庭がある。
残留孤児に対する政府の政策を作ってほしいと思って、113万人の署名をして貰って、政府にも対応を持ちかけました。
2002年から帰国者の待遇改善の裁判を日本各地で行って、全国の代表として活動しました。
原告側に参加たのは2212人でした。
生活保護の人がほとんどでした。(国民の税)
言葉が出来ないと働く場がない、全国で同じような思いをしていた。
2007年に裁判が終わりました。
15か所で控訴した結果、7か所は敗訴、1か所は勝訴、7か所は和解となりました。
残留孤児20歳~60歳までの国民年金全額6万6000円が日本にいなかった期間があっても65歳になったら貰えるようになりました。(2008年4月~)
帰国した配偶者も4万4000円貰えるようになりました。
生活をするために他に支援金もあります。(二人で17万円位になり生活は安定する)
2009年に日中友好の会をスタートさせる。
裁判の時は団結したが、その後はバラバラになってしまって、組織があった方がいいと思いもあり、日中友好の会を作りました。
5回訪問しましたが、会の最高齢は83歳です。
2世、3世も訪問団に参加しましたが、今後は若い世代に続けてほしいと思います。
日本に帰って来て、言葉が通じないとか、生活習慣の違いがあり、高齢化してきて、政府として残留孤児の介護、老人ホームの事を考えてほしい。
日中の関係がぎくしゃくしていることに対して心が痛みます。
仲良くするとみんな温かい心になる、行き来して友達に成り、戦争は絶対にしないでほしい。