高橋武市(観光庭園園主) ・大地に描く夢の花園(2)
この土地で心底好きな花作りで生きていこうと決めたのは、中学生の時でした。
それから62年、自分が理想とする花園をたった一人で大地に絵を描くように黙々と作り続けて来ました。
高橋さんは毎週日曜日の午前中、自ら庭を案内するガイドツアーをやっています。
8月はフロックスが一番賑やかになり、9月になるとハギがどんどん咲いてきます。
9月の最後には庭園はクローズになります。
私のおじいさん、おばあさんがが岩手県出身です、最終的に滝上に昭和5年に入ったそうです。
開拓して畑にして、山仕事もして、父は冬はマタギをやって収入を得ていました。
開拓としては遅かったので不便な場所の痩せた土地にしか入れなかった。
父は私が生まれてすぐに戦争に行って、4つのころに帰って来ました。(昭和20年)
帰ってきて嬉しかった記憶はあります。(軍隊服装を覚えています)
親が喧嘩をしている姿を見たことはなかったです。
当時は周りも含めて貧乏でした。
馬の背のような土地だったので、雨が降るたびに畑は痩せて行きました。
母は私が小学校の4年生の時に妹を産んだので、小学校の4年生の時からてんびんで水汲みをしました。
小学校6年生の時には一斗缶二つをほぼ満杯にして運べるようになりました。
貧乏でしたがあるものを親と兄弟5人の家族みんなで分け合うようにしていました。
一番最初に生きるために野菜売りして、中学2年の時に蓮華つつじが軽くて高く売れたので、半年水に浸けなくてもサボテンは生きるとの情報を得て、愛知県でサボテンを栽培していることを突き止めて、手紙を出して分けてもらう事が出来て、サボテンは珍しくて、売りに出すと瞬く間に売れてしまった。
サボテンは水が要らないことは魅力的で、それを拡大していきましたが、卒業後本格的にやろうとしたが、温室も作らなければならなくて、資金も必要で資金がなくて、ひと冬木工所にも通って、花をやっていこうと決意しました。
親は反対しましたが叶わなければ家を出ると言いましたら、しぶしぶ納得してくれました。
雨が降ったりすると売れない時もあり、売れ残りを担いで登ってこなければいけなくて、ぽろぽろと涙を流したことも何回かありましたが、空元気で続けてきました。
或る時台風で山に倒木がたくさんできて、木工所では規格外を自分の身体だけで持てるものは自由に持ち帰ることが出来て、1回50~60kgのものを持ち帰り、毎日やってそれをつかって温室を作りました。(昭和32年の頃 面積は小さいが花園もやっていました)
やりたいことが山ほどあり、2.5時間~3時間寝て暮らすことを35歳ぐらいまでやっていました。
昭和42~3年の頃サボテンはかなり順調に行って、室蘭まで売りに行ったりしていました。
10月上旬に大雪が降って、列車が不通になり帰れなくなって、ようやく帰ってきてみたらサボテンは全滅でした。(厳しい状況に追い込まれた)
3月に新たにサボテンを購入して、売り歩きながら増やしていきました。
支えになったのは花が好きだと云うことでした。
昭和49年には来年からはお客さんを呼べるなと思い、替わり替わり山に花が咲きだしてお客さんを呼べるようになりました。
これで外だけで人を呼べると思い、昭和50年9月に温室を整理しました。
どんなに苦しくても、昨日は昨日、今日出来ることは今日から明日に向かって進んでいこうと、そういう生き方でずーっと来たので、辛いことはずーっと封印してきました。
苦しい事を思い出してもプラスにはならない。
今日どうやったら明日以後の夢を広げていけるか、常に心掛けながらやってきた、自分の力でしか生きていけないと云う事が子供のころからの境遇だったので、自分の人生は自分で切り開くしかない。
お陰さまで全国各地から色んな人が来てくれて、今までやってきたことが報われかかってきたと思います。
子供のころは真っ暗だったが、今は幸せな人間の方なのかなと自分では思っています。
今日と云う日を起点にして考えてきたので、その時何が出来るかと云うことをずーっと続けてきたので、これからますます自分で望んだ方向に来たので、生きてる限り夢が広がっていく方向に若い時から仕込んできたことが、今になって幸せ感となっているのではないかと思います。
来た人が自分で見て自分で感じて貰うしかないね。
ここは生きた芸術作品だと思っている。
生態系の全部が見れるし、春から秋までずーっと花が見られる。