2017年7月21日金曜日

大野義夫(カントリー歌手)     ・アイ・ラブ・ヨーデル!

大野義夫(カントリー歌手)     ・アイ・ラブ・ヨーデル!
昭和6年東京杉並生まれ。
中学生の頃お兄さんからウクレレを教わり、その後自作自演のスチ-ルギターでハワイアンバンドを作って、お祭りの演芸会などで演奏していました。
法政大学入学と同時にウエスタンジョリーボーイズを結成、6大学音楽リーグ戦、アメリカ軍のキャンプなどで活躍しました。
その後、マウンテンボーイズ、サンズオブドリフターズ等いくつかのバンドに参加、1957年3月、「堀威夫とスイングウエスト」発足と同時に参加し、以後60年余りにわたって、戦後のカントリーアンドウエスタンの世界をリードしてきました。
1960年にオーストラリア、ハワイ、アメリカ本土をバンジョーとヨーデルの武者修行で回ったことが今日の大野さんを作ったと言います。
85歳の今も現役歌手としてライブやコンサートで活躍しています。

今は月に2から3回やっています。(1時間を2回で一つ)
声は最近歳とともに出るようになった感じはしています。
ヨーデルの場合が半音下げて歌います。
風呂に入って20~25分歌っています、それが練習です。
ヘッドホーンして30分ぐらい歌ったりもします。
以前は腕立て伏せ100回やっていたりしました。
ヨーデルはアメリカからレコードを取り寄せて擦り切れるまで聞き練習しました。
1945年 14歳の時にウクレレが置いてあるのでいじってそこから始まりました。
或る時スチ-ルギターの音が聞こえてきて凄い音だと思って、購入するには高かったので作ろうと云うことになりました。
友人が楽器屋のスチ―ルギターのメッキ屋で失敗したものから集めて作りました。
買うと7000円が1000円ぐらいでできました。
9月にお祭りがあり申し込んで出演しました。

昭和26年5月11日に新橋のRAAビアホール米軍専門のホールに行ったときに原田さんのスチールギターを聞いたときに凄く上手くて自分では無理だと思って辞めると言ったら、歌も歌うと云うことでそこに入りました。
ウクレレ、ギターをやっていたら、バンジョーを頂き(オーストラリアのジョン・ベスパーさんがヨーデルを歌う、バンジョーを弾く人)周りは誰も弾いていなくて、弾き方が判らなくて、オーストラリアにいい先生がいるのでいかないかと堀さんからいわれて、それが本気になってきてほんとうに行く事に成りました。
ヨーデルはスイスのアルプス地方とは違うが、ウエスタンスタイルはステージでもうけるように自分なりに勉強しました。
ウイリー沖山さんとはヨーデルの言葉が違いますが、共演するようにもなりました。
23年前喉にポリープが出来て、ヨーデルの声が出にくくなりました。
平成6年6月6日に手術をして貰って、声が出るのかと思って心配だったが声が出て嬉しかったです。

法政大学に入学して、6大学音楽リーグ戦がありそこでやっていました。
法政大学ではウエスタンジヨリーボーイズで2年ちょっとやっていました。
サンズオブドリフターズには変遷してゆきますが、坂本九、井上ひろし、岸部清、桜井輝夫などがいました。
1957年(昭和32年)3月に「堀威夫とスイングウエスト」を結成し、そこに加わりました。(9人バンド 今も全員生きています)
昭和34年8月から12月までオーストラリアでバンジョーの勉強をしました。
午前中は庭で練習して、自分が思っている習いたいバンジョーのスタイルではなかったが、一生懸命やりました。
週末にはパーティーがあり、日本の歌を歌えと云うことで黒田節などを歌い他にも向こうの歌も歌いました。

ハワイ経由でアメリカに渡って、グランド・オール・オプリ(テネシー州ナッシュヴィルのラジオ局WSMの毎週土曜夜のカントリー・ミュージックの公開ライブ放送のラジオ番組 「カントリーの最も有名な舞台」と呼ばれる)に東洋人として初めての出演となりました。
テンポが早くてヨーデルを入れてみんなを知っている曲を選べと云うことで、「コロンブス監獄のブルース」をやったら大喝采を浴び、一生忘れられない思い出です。(1960年5月7日)
帰国後、スイングウエストから独立して、自分のバンドを作って3人で始めて、その後編成が増えて行きました。
米軍キャンプがまだ華やかだったので、稚内から青森から関東、横浜、九州、沖縄(返還前)まで行きました。
韓国、グアム、フィリピンなどに行きました。
「大野義夫&カントリー メイツ」と「マウンテンプレイボーイ」(ジミー時田)と一緒に成って「フォーークソングとカントリーの夕べ」と云うことで日本国中回りました。
頑張って新しい歌も挑戦しています。