2017年7月3日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・川上貞奴【近代日本150年 明治の群像】

本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・川上貞奴【近代日本150年 明治の群像】
神田 蘭(講談師)
日本の女優第一号の川上貞奴
明治時代の芸者上りの美人女優、フランスの文化人にも称賛された国際女優との評価もあり。
本郷:調べるまでは浮ついた人かと思っていたら凄い人ですね。 女傑です。
神田:私の好きな女性の顔です。 凄い星のしたに生まれた人って、こういうことかなあと思います。
明治4年生まれ、昭和21年に亡くなる。

神田による講談による川上貞奴の紹介
「1900年開催、パリ万国博覧会で一躍脚光を浴びた川上貞奴。
本名小山貞 明治4年、日本橋の両替商の家に生まれる。
新政府による銀行が出来て、両替商が没落して行く。
7歳のときに、浜田屋という芸者置き屋に預けられるが、女将亀吉が自分の養女として芸者として育てて行く。
気の強さ頭の良さ、才能でもって日舞、歌、三味線などさまざまな芸を身につけて、評判の芸者に成って行く。
芳町で一番の芸者が継ぐやっこを襲名する。
初代内閣総理大臣伊藤博文がやっこを水揚げをする。
馬術、水泳、ビリヤードなども行う。
或る時野犬に襲われ、乗っていた馬が暴れだすが、野犬を追い払い馬をなだめた一人の男がいた。
それが岩崎桃介(後の福沢桃介)で恋に落ちる。(当時慶応大学の貧乏学生)
岩崎桃介は福沢諭吉の娘との縁談ができて、アメリカ留学することになる。
その為やっこは荒れていろいろ浮名を流したが、周りが心配して壮士芝居にやっこを誘った。」

「壮士芝居、浅草の中村座へゆく。 そこでは川上音二郎がオッペケペー節を歌う。
川上音二郎は1864年(文久元年) 九州博多の商家の二男として生まれる。
14歳で増上寺の小僧として働くが福沢諭吉に見出されて慶応大学の学僕となり、後の京都に行って巡査になるが、自由民権運動にのめり込む。
逮捕180回以上、投獄20回、その間講釈師などいろいろな職業につく。
川上音二郎がオッペケペー節を創案する。
やっこは川上音二郎(28歳)に心を奪われ、楽屋に挨拶に行くことになる。
やがて結婚することになる。(明治27年 貞奴23歳)
川上座と言う劇場を建てるが、多額の借金を抱え込む。
小さな船で海外に行こうとするが、3ヶ月半漂流して神戸に着くが、これが評判となりアメリカ行きの話が舞い込む。」

川上音二郎がやっこを女優にする。
川上音二郎はペテン師的な要素があるが、生命力を感じたんではないのでしょうか。
川上音二郎の芸は素人芸みたいな様な気がする。(現代に伝わっていない)
オッペケペー節だけは残っている。
明治28年の川上貞奴の生の歌が残っていた。 
*「槍と錆」(日清戦争の士気を高めるための歌だったようである)

「1899年4月神戸港をあとにアメリカに行くことになる。
アメリカでは芸者の存在が注目されていた。
やっこを女優としてデビューすることになり川上貞奴が誕生することに成る。
シカゴ公演でアメリカ人を魅了してイギリスへ行くことになり成功を収め、パリ万国博覧会に出演して貞奴の美しさ華麗な演技はヨーロッパ中を虜にする。
彫刻家ロダンがモデルに申し込んだり、、ピカソが貞奴のポスターを描いたり、アンドレジッド、プッチーニなども注目する。
帰国するが、貞奴は外国と日本の芸風の違いに芸に自信が持てなかった。
アメリカの舞台は生きた女性として自分を見せるのですと言う思いを持った。
音二郎は大阪に帝国座を建てるが、このころは音二郎は病に倒れてしまう。
音二郎は47歳で亡くなる。
46歳で女優を引退し、初恋の人、福沢桃介と暮らすようになり、福沢桃介を助けて色々な事業を手掛けて行く。
川上貞奴は昭和21年に亡くなる。(75歳)」

音二郎は公演で他にも切腹シーンを入れたが、それが受けたようだ。(異質な感じだが)
貞奴は何か持っている人だった。
明治33年パリ万博での川上音二郎一座の音声が残っている。(オッペケペー節を歌う)
後に「電力王」の異名をとった福沢桃介(福沢諭吉の娘婿)は水力ダムを作る、現在も残っている。
貞奴は何でもできた人なので、今生きていたら、実業家、学者、政治家何になったんだろうかと色々想像してしまいます。