2017年7月18日火曜日

池田澄江(中国帰国者・日中友好の会 理事長)・三つの名前で生きて(1)

池田澄(NPO法人中国帰国者・日中友好の会 理事長)・三つの名前で生きて(1)
1944年旧満州黒竜江省生まれ。
終戦の混乱の中、中国人に預けられ、養父母の元で育ちます。
36年前肉親を探し求めて来日した池田さん、長い時間を掛けやっと実の姉達との出会いを果たし、日本で生活しています。
日中国交正常化45周年の今年、NPOの会員102人で中国を訪ね養父母の墓参りや、現地の人たちとの交流を深めて帰国しました。

6月の末、1週間日中友好の会102人とともに中国に行ってきました。
黒竜江省に行ってその後北京に行きました。
黒竜江省は残留孤児の70%が生まれ育ちました。
中国は第二の祖国です。
ほとんどの養父母は亡くなっています。
お墓参りをしてきました。
戦争がなかったら外国に残されることはなかった。
その後北京大学で交流会が行われました。
わたしたちの命は中国の養父母、みなさんによって支えられました。
今回で4回目になりますが、北京大学で若い人たちと交流を持ったのは初めてです。
去年の12月3日に北京大学のいん?教授が日中友好会の事務所にきて、残留孤児の歴史を研究する仕事で、先生の大学に行って若い人と交流が出来たらいいなあと話したら、最初快い返事ではなかったが、大使館にお願いして日中友好協会から向こうにお願いして、OKに成りました。

1944年(昭和19年)10月14日生まれで、戦争が終わった時には10カ月だった。
実の親は母乳が出なくて、泣く泣くB?さんという中国人に渡しました。
子供がいなかった除さん夫妻がお金を出して引き取ってくれて、「徐明」という名前になりました。
明るく優しい人でした。
8歳のときに(1953年)養母と日本の公安局2人と話をして日本人の児だと云うことでしたが、養母は反対して違いますと云ったそうです。
しかしその時に初めて日本人の子だと云う事が判りました。 
当時同級生達は日本人は鬼と呼ばれていて子供は小鬼といわれていました。
先生はいじめはだめですと、当時は助けてくれました。
養母に私は悪い人の子供ですかと云ったら、(人を殺す、家は焼く)みんな悪いのではなく兵隊ですと。
子供でも日本人は挨拶をするし、女性は優しくて、当時はその事を教えてくれました。

小学2年生、3年生の前半までは徐さんの家では人を雇ったりしていて裕福でした。
私は一人でいた時は衣服も綺麗にしていましたが、3から4歳のときに突然子供が来て、食べ物などいいものはその子にあげて残ったものを私にくれて、凄くやきもちを持ちました。
男の子は母親が亡くなりお父さんも仕事で面倒を見る人がいない、それに比べてあなたにはお母さんがいる、この子はかわいそうだと教えてくれてくれました。
9歳の時にお父さんが商売に失敗して、借金の取り立てに来て、お母さんは朝マイナス40度の寒いところで商売をしました。
夜中にそばにお母さんがいなくて台所に行ったら、お母さんが自殺しようとしていて、今の生活はどうにもならないが、子供を育てるのは自分の責任だと云うことで自殺は止めました。
服は買えませんでいたが、正月だけは嫁入りの時に持ってきた服のサイズを変えて、作ってくれた服を着ました。(血のつながりはないけど凄いお母さんでした)
教師になるため師範学校を卒業して、目標だった先生になって、結婚もして3人の子にも恵まれました。

1972年 日中国交正常化、1978年日中平和友好条約が結ばれる。
文化大革命の時には、初めて日本人、やばいなあと思いました。
中国にいるといくら頑張っても優秀な人間に成れない、公安局の人が来てあなたは日本人だから登録しなさいと言われました。
近くに日本人の女性が居てその女性と付き合うようになって、日本は悪いところではなくて、肉親を探すことはできると言われました。
養母にも話をして承諾して貰って申請をしました。
自分の親兄弟など本当のことを知りたかった。
1981年(36歳) 子供3人とともに帰国しました。
1980年の時に肉親捜しの件を朝日新聞の菅原さんに書面で渡して、そのことが朝日新聞にでて、北海道から直ぐに手紙が来ました。
中国では血液型は調べて無かったので病院で調べて、その人に送りました。
あなたは私の娘だと言われました。

戸籍取得にはまだ不足なのでDNA鑑定をすることになったが結果は違っていました。
中国に帰るだけのお金もなくて、法務局に行って日本での親捜しをしたいと云うことで
交渉したが、期間が切れたら強制送還するといわれてしまいました。
7つの遺書を書いて、自殺しようと思いましたが、3人の子供を見て、子供への責任を感じて生きる力を得ました。
東京では助けてくれる人がいるかもしれないと思って、菅原さんを介して東京に来ました。(1981年12月17日着)
12月24日、朝日新聞に大きな記事で全国から凄く応援してもらって、桜共同法律事務所の河合弁護士が電話をかけてきてくれて、助けてくれました。
1982年5月31日、日本の戸籍が取れました。
親の欄は親不詳、名前は通訳の方が今村と云う人で今村という姓を使ってもいいと云うことで、「今村明子」と云う名前になり、日本国籍を取得しました。(身元未判明孤児として初めて取れました)