2012年11月18日日曜日

雨田光弘(チェロ奏者、画家)    ・自由な心で描き、奏でる

雨田光弘(チェロ奏者、画家76歳)     自由な心で描き、奏でる  
1935年東京の生れ日本フィルハーモーニー楽団で12年間在籍 主席チェロ奏者として活躍、退団後はソロや室内楽に活躍の場を広げる一方で、幼い頃から得意だった、絵の創作に本格的に取り組んできました  
オーケストラに在籍した時代の体験を生かし、楽器を弾く猫を題材にした水墨画を数多く手がけ 画集や、カレンダーを初め、ファイルなどの文房具などに描かれている絵として親しまれています 音楽と絵と言う2つの世界をどのように極めてきたのか、その心とは何かお聞きしました  

中学の頃 チェロの音が好きに成り、始める  
毎日弾かないと、、罪悪感があるような気がする 
顔を洗うとか、歯を磨くと同じような感覚 2~3時間練習する
アマとは練習の仕方が違う 楽しいとは言えない 
引けば弾くほど旨くなるというか先に又見えてきて 捕まえたということは無い
絵と音楽はある意味違うと思う   暗譜しなくてはいけないと言う事ではないが、覚えてしまう
父は雨田光平 日本で最初にハープを最初に入れた人であり、彫刻家です  
琴も弾くし、書も書くし、絵も描いていた
勤め人の家庭とは違っていた 羨ましい様な、羨ましくないような
最初に絵描きになりたいと思っていたが、音楽の方に進むようになった
親としては両方やりなさいとの方向の意見でした
シャガールもバイオリンを弾いた  
音楽をやることによって、絵に影響を及ぼすことがあるし、音楽を通じて、絵に影響を及ぼすことがある
基本をしっかりとやりなさいと言われた   桐朋学園に音楽の勉強の為に入学した  
18歳のときに中途退学して、チェロの勉強をして桐朋学園に入った
遅く始めたと言う事が今でも引きずっている  
子供のころからやっている人達は楽器を弾く事が綱渡りではない 綱にまたがっている 
ようやくぶら下がっている状態です  
子供のころからやっている人は休んでも、直ぐに元に戻るが 私などは常に練習していないと駄目  スタートラインが違う
好きだから諦めなかった  自分の出来る限りの処で満足しなくてはいけない  
高校を出て2年間 桐朋短期大学にまなんだ  1年 2年の区別は無かった
レッスンは厳しかった 

技術的なことばっかり言われたことが、音楽的な事を言われたりするようになった
卒業し、それまでの6年間ではまだまだでレッスンには行った  
仕送りは止められて、途方に暮れていた時に、アルバイトを見つけてくれて、キャバレーのバンドの 一員としていたことはある 
異質の世界 見たこともない様な、その様な生活も面白かった   そういう時代が有った  
何でも勉強になると言う先生の意向が有った、質の違う音楽であるが  
26歳のときに 日本フィルファーモニー楽団に受かった  憧れではあった  10人チェロの人がいた  最初はなにがなんだか判らず弾いていた

段々年月がたてば新しい人が入っていて 丁稚から番頭までいるような状態  
当時の指揮者が渡辺昭雄先生から小沢さんに変わった 一層厳しくなった
小沢さんは自分の思い通りにすると云うやり方だった  
共鳴する人もいれば、反発する人がいる 
或る時に主席に成れと小沢さんから言われた (チェロ奏者の責任者) 
弾きながら指示をだす重要な地位
気が動転して、実際の処やめたかったが、修行の一つと思い 続けた  
間違った当人を怒るのではなくて、主席に対して怒る

喜びはあんまり感じないで、プレシャーを感じていた   
日本フィルは二つに分かれて解散した 
残った人もいたが、外に出て行った人もいた(私も出て行った)
自分達の仲間たちで形成する 室内楽  自由さはあった  
オーケストラと室内楽はそれぞれ いいところがあるので、どっちがいいとは言えない
音楽と絵を結び付けたようなコンサートをやる様になった 
オーケストラにいたころは忙しくて、絵を描いている暇は無かった