2012年11月4日日曜日

中村昌枝(79歳)         ・時代を作った女たち(女子バレーボール)

中村昌枝(79歳)            時代を作った女たち(女子バレーボール)  
東京オリンピック 女子バレーボール主将 1933年山梨県の生れ 
37年主将として世界選手権で優勝 39年東京オリンピックでも優勝して金メダルを取りました 東洋の魔女と呼ばれ世界を驚嘆させました   旧姓河西昌枝  

バレーボール協会とは何にもやっていないが、応援をしています  
年に何十回はボールに触る ママさんバレーで教えたりしている
10月23日にソ連と決勝を争う  
2セットまでは日本が取ったが3セット目にソ連が先行  
マッチポイントを握るが6回のサーブ権の移動があり最後に勝利する
当時31歳だった  当時の仲間たちはオリンピック後に2~3年後には結婚した
昔からいつでも一番後ろに並んだ  
兄が3人いるが、背は皆大きかった 両親は普通だったが 

小学校時代が戦争だった  
畑仕事を手伝いするのが当たり前の時代だった(田植え、草取り、麦刈等)
背が高いのは悩みだった バレーボールを選んで良かった  
中学ではバレーボールもなかなか無かった時代  きっかけはバレーの先生がいたから
高校に進んでもバレーボールを選び 県では優勝が出来なかった  
3年の時に関東大会に出る 1回戦は勝ったが、2回戦には負けた
ニチボーの足利工場の工場長がこの大会を見ていた  背が高いので目にとまった  
バレーは旨くなかったが、採用してくれることになった

27年に足利工場に就職する  当時は日本一のバレーボールチームだった  
真似したり聞いたりすれば何とかなると思った 2年目にレギュラーになった
29年に貝塚工場に転勤となる  ニチボー貝塚が誕生する 全日本を制覇する  
4つの全国大会があり、全部制覇する 25歳の時 その時に6人制が出来る
その時は辞める事にしていたが、6人制でやれば、外国に行けると言う事で続けることにした
1960年ブラジルで世界大会があり、そこに行くことになる   銀メダルを取ることになる  
決勝ではソ連に負ける
優勝杯を見た時に あの一位のソ連に勝てば、優勝杯を獲れるのだと思って、合言葉のもとに練習することになる 
オリンピックにバレーの種目が入ることになる 
オリンピックの2年前に世界選手権大会があり、優勝する そのままのメンバーでやるかどうかが焦点になる
大松監督がお前らがやるなら、おれもやると言った  
両親との話では纏まらず、監督に預けることになる(29歳の時)

父はオリンピックの年の8月に亡くなり、オリンピックは見ることが出来なかった
オリンピックでは追われる立場になる  女子バレーは金メダルだと回りから言われていた  
兎に角練習をやって、ミスの無い事を目指した
出来なかった事が段々出来るようになった そういうことの繰り返しだった  
8~10時間練習する  4時間位しか眠らなかった
時差の問題があり、寝る時間を深く眠る事になる  そういう身体にして行った。
4時から練習に入って、7時位におにぎりを食べて、1時、2時に終了する様な練習時間編成だった
給料貰っても遊びに行かないので、使い道が無かった  
世界をめざすようになってから、正月休みぐらいだった
練習のきつさで辞める人はいなかった  
鬼の大松監督といわれたが、練習はきつかったが、練習が終わると普通の人だった
コーチは置かなかった 兎に角一人でやった  
その姿勢の一生懸命さに 一緒に付いて行った  
監督、選手が お互いに知りつくしていた
50年経っても昔のチームメイトとの 絆、仲間意識は全然変わらない
身体を動かしているのは健康に良い(ママさんバレーでの継続)