藤田三保子(女優) 鳩子の海から38年 私の熱中人生
突然の病 18歳の頃 考えると赤い顔をしていた
病気の特徴的なのはほっぺの両方が真っ赤に成って 赤い赤班が鼻の上で繋がる 症状が特徴的、だから考えてみるとその頃発症したしたのかもしれません 判りません
ハシカは 高熱が続いて 1週間40℃の熱が続いた その後から高タンパク尿が続いた
主治医は他に全く症状が無かったものだから、起因性たんぱく尿だろうと 3年ほど放置していた当時6歳と4歳の子供がいた
(相手は再婚だったので) 生命保険に入ろうと思ったら、、病院に行くことになり 腎臓がやられていて、ネフルズ症候群だと判った
でも全然自覚症状が無かった たまたま其の時に仕事が有って 困ったなあと思っていた
視聴率が悪くて仕事が中止になり、病院に入院することになった
膠原病を疑う先生だった 腎蔵の組織を取り検査したら、膠原病と判定された
最初の入院が3か月半(27歳) 強い薬を飲んでいて、少しずつその薬を飲んでいくことだったが 仕事に早く復帰したいと思い、自己判断で一挙に薬を飲むことを止めてしまった
みるみる痩せてきて喜んでいたら膝に関節痛が表れ、検査して貰ったら再発していた
そして2カ月半入院することになった(29歳)子供との連絡を公衆電話でいろいろと電話した
子供達に申し訳ないと思い、再々入院だけは止めようと以後先生の言う事をしっかり聞いて治療に専念した 先生からは女優を止めなさいと言われた 不治の病
薬も良いのが出来て来るだろうからと、それを毎日治しながらそれを待ちなさいと言われた 若かったから、口には出さなかったが、「パンのみに生きるにあらず」 だと思った
病に関して、最初はっきり判っていなかった
そのうち段々不安になってきて、中々退院できなくて、入院して自分のベッドの上で 自分と同じころにデビューした人達が主役で活躍している姿を見ると、段々あせってきた
どうして自分はこんなところにいるんだろうと思ったりするようになった
主人がある一冊の本を持ってきた 「受容」と言う本 読んでいると 最初 難病と言われたときは 驚きがあり 次に怒りが来ると書いて有った
如何して私だけがこういう病気になるのか という怒りが来るという心理的変化の様子が書いてあった 最終的には受容があると書いてあった
この病気を受け入れてこの病気と一緒に生きて行こうと おもう事と書いてあった
怨んでも怒ってもならない 一緒に歩くしかないと思うようになった
悪く言えば諦めかもしれないけど、絶望するわけではない 良い未来があるかもしれないし、 42.195kmは駆けられないかもしれないけど、50m先までは駆けられるかもしれない
30年後に良い薬が出来たら、間に合わないかもしれないけれども、間に合わないから今どうするかと言えば、そうじゃ無くて1年後にはそういう薬や治療法も出来るのではないかと思うようになって、 しょうがないや一緒に行くしかないと思うようになった
目の前に2人の子供がいたことも良かった 身の回りの作業に追いまわされているうちに、5年経ち、10年経ち そういう事に日々追われていた
病の中を並行して家の事 食事 洗濯等々やってきた
子供を産む事 人生最大の決断だった 妊娠は完全に薬を飲まなくなってから、5年後にお願いしますと言われて、自分の年齢を考えると子供は産めないなと思った
ドクターストップがかかっていたが、或る時に妊娠が判った あの時は困った
どうしても出産するのであればプロジェクトを作ると 言われた
我々は医者であって如何しても生みたいとの思いがあれば、止めることはできませんと医者から言われた
最悪の場合を教えてくれた 身障者が生れる確率が25倍 母親が寝たきりになる可能性もあるといわれた
その間の 時は 暗闇の時代だった 主人は一貫して産めばいいと言っていた
考えて考えて 悩んで、悩んでいる時 先生も女性の先生で強皮症という膠原病を患った先生だった 先生も妊娠して、子供を産んだ先生で 「藤田さん 産んでから考えなさい」と言われた
それで私は「女は強し」と思った それから産む決心をした 帝王切開で生まれた
その子は25歳になる ベストで生まれた わたしも2カ月の入院で済んだ
生れた直後の子供を見たのがターニングポイントですね 女優はもう駄目だろうと思っていた
求人広告を見たら30歳以下だし 子供が例えば5歳になったときに、お母さんはどういう人だったのと言われた時にお母さんはね昔こういう有名な女優だったのとは絶対に言いたくないと思った
ずーっと表現者でいたい 娘が20歳になったときに お母さんの人生は素敵な人生ねと言われる様にと思った それがターニングポイント
女優なのに着物一つ着れない状態だった 着物を着られるようになろうと着物教室に行った 免除は貰ったが人に着せる事も出来ない 早く着る事も出来ない
女優なのに日舞もできない そうだ日舞をやろうと思った
日舞に通いながら着ものを早く着れる様になると思って始めた
そうしてるうちに踊りだけやってても旨くなれない 三味線を習いに行き始めた
和物だけをやっていてもしょうがない 洋物も カラオケ教室に行き始めたら カラオケじゃ駄目だと言う事が判ってタップダンス教室に行った
ジャズ教室にいき いろいろやっているうちに仮面の会 (吞み会)にいった いろいろな人が参加していた
絵描き、イラストレーター等の話しが面白くて面白くて 月1回 参加した 下らない話だが
何かしなくてはいけないと思っているうちに 絵描きさんから(女性)
案内状が来て 久保田雅子さんに出会う事が出来て 家が非常に近かった
番組で白馬三山のスケッチしてほしいとディレクターから言われた
其れを書いて番組の中で数秒流れて、それを久保田さんが見てくれて、絵が描けると言われ、絵を習ったこともないしと居たら、家に来なさいと言われた
この人の言葉に乗ってみようと思った
自分にはどういう絵が合うのだろうと思って、いろいろな絵を描いた
個展 14回目を今年やった 朗読 シャンソンとかに広がってゆく 朗読は一人で出来るので
長く読んでも30分なのでショーにならないので考えて音を入れたら 良いのではないかと、思った 中原中也の詩を読むときに、マンドリンを入れたり 笛を入れたり 平家物語にチェロ入れたりしたが、楽譜は無いのと言われた
困ってしまって 友人からシャンソンやらないと言われた
音楽も入れられるし、年を取っていっても出来る 一人でもできると言う事でシャンソンを始めた
月 1回のライブをやってい(10年目に入る) 最初日本語だったが、フランス語で歌うようになった
俳句 仮面の会のお陰 吉田さんに声を掛けられて、(小さい頃詩人になりたかった)
行きますと言った
俳句の魅了に取り憑かれた 奥の深さに感動した けちょんけちょんに批評された
俳句絵を防府天満宮に奉納した 96年から油絵を始めたが、なぜ俳句絵を描かないのかと言われ水彩画をやった 水彩画による俳句絵をやる
防府天満宮の1100年紀で奉納の話があり、奉納することになった
人間はやっぱり家族が無ければいけないんだなあと思いますね
子供のころは一人で暮らしていたので温かい家庭が欲しかった
「山頭女」という雅号 「無言なる 身のかんぬきや 落とし水」
かんぬき は黙っていて そこに停滞しているわけ それではいかんだろう
稲の様に堰を切って水を落とす 落とし水のその日が無ければいけない
無言じゃいけないだろうなあという思いから 作った