京都 出身 14歳で映画デビュー
昭和36年に始まった 放浪記では 林芙美子役をやる
雑誌の掲載が決まった喜びを表現するでんぐり返しは舞台の名物になる
2000回に達した平成21年7月1日(89歳)には国民栄誉賞を貰いました
今月10日 92歳の生涯を閉じました 2009年収録
家のすぐ前には鴨川、玄関の方には高瀬川が流れ、川と川に挟まれて 芸者が行き交っていた母は三味線が好きだった
朝から三味線弾いていられるとなると,芸者になっておかみさんになっていて、父は帝大の学生だった 母からは叱られた事が無かった
元日からお客が来れば、対応に追われた
父は大阪から月に1回か2回来てくれた 父と母は結婚出来なかった
その様なケースはいろいろあったようだ
兄が戦争で取られた 妹がいる 母の違う妹 有ったときに圧倒された
歌が好きで踊りが好きで 丸物にNHKが入っており 7歳のときにそこで踊った事がある
祇園祭 大文字 5山のうち 4山は家から見えた おてんばな子だった
将来は少女歌劇に入りたかった みずのえたきこが憧れだった
芸能界が好きならばと伯父が紹介してくれる
新興シネマ 嵐寛壽郎(母の兄の息子)がいたので 時代劇の女優として、映画の世界に入る デビューでは凄く緊張したが、最終的には何とかなるという思いであった
いろんな役をこなしてきた 忙しかった 朝は舞子だったり、昼は武家娘 茶店の子
映画の世界を止める 歌を歌い、踊る事が出来ない
立ち回りが多くなった(映画が変わってきた)
昭和16年に辞める (その年の12月に真珠湾攻撃がある
)
情報は少なかった 東京に家出同然に出掛けた
現代劇にでたい 経済的にも苦労した
知り合いの女性に紹介されて家も定められた
銀座に事務所があり、そこに紹介されて、勉強を始める
映画と映画の間にアトラクションがあり、そこが新人でも出来るのでそこで仕事をした
東海林太郎(早稲田) 藤山一郎(慶応) 双葉百合子 淡谷のりこ 等が第一線で活躍していた二人の間に2曲歌う役割をする
東海林太郎は生真面目な人で あまりしゃべらない
戦争に突入して、マニキュアをするなと言われたが 淡谷さんは堂々としていた
私はこれじゃないと私ではないのよ と言っていました
パーマネントは禁止されたが、これだけは皆辞めなかった覚えがある
歌が歌えなくなった、進む道が間違ったかなあと思ったりした
慰問に行った 一回行くと1カ月 他にも8カ月かかったときも有る
神戸港から出帆した 五島列島 台湾へ向かうが 五島列島を出た時から襲われたりした
台湾でバナナからコレラ菌が出てストップ シンガポールで1カ月止められる