山田久志(野球解説者64歳) 私を育てた秋田
1948年秋田県能代市生まれ 能代高校から社会人野球の富士鉄釜石へ進み、ドラフト一位指名を受けて1969年にプロ野球 阪急ブレーブスに入団 活躍しました
その年に最も活躍した選手に贈られるMVPを史上初の3年連続して受賞 阪急ブレーブスを
7度のリーグ優勝 3度の日本一に大きく貢献されました
アンダーハンドで通算284勝をあげ、史上最高のサブマリーン投手と言われています
引退後はオリックス、中日のコーチを歴任 2009年ワールドクラシックベースボールでは
日本代表の投手コーチとして連覇に貢献されました
5人兄弟の一番下 小学校の6年の最後 父親を病気で亡くす
中学校に行く時に 野球とか皆でやるスポーツをやってみたらどうかと母親から言われた
中学校の3年の時に 兄が高校3年で能代高校から甲子園に行く
兄の姿を見てかっこいいと思った よし甲子園を目指して野球をやろうと能代高校に進学する 高校2年生の夏までピチャーではなかった 2年では3塁手になった
9回裏2アウト満塁 同点 の場面 ピッチャーを励ます(自分に自信が無い)
何でもないゴロ 取った 慎重になる ボールをグラブから落としてしまう
拾って 取った瞬間にファーストに投げる さよなら暴投してしまった
自分では大きな失敗をしてしまって、3年生の言っている事すら頭に入ってこなかった
能代に帰ってきて 友人等から来年も有るから頑張れと言われた
大田監督から言われる 失敗は誰でもある でも失敗を自分で引きずるのも その人の人間性 だけれども、失敗を力に、失敗を糧にして力に変えてゆくのも大切な事だと得々と言われた
お前は明日からピッチャーをやりなさいと言われた
ピッチャーとキャッチャーはやったことはない
中学2年~高校2年の今まで、ピッチャーはやったことが無い
直ぐ3年生になって 3年の夏になった 秋田高校と決勝で対戦 ここで負ける
この時に野球に対する考え方が全く違った
自分で3振を取った時の快感、 打たれた時の周りの野手の守りで助けたれ事
奥の深さを感じて、とにかく野球を続けようと思って富士釜石に2名の枠があり入ることが出来た関西の6大学でピッチャーをやっていた人が新監督になった
その人がアンダーハンドのピッチャーだった
その監督がアンダーハンドで投げるようにと指摘された、監督の指導のもとに 投手として練習を重ねた
その間1年半 社会人野球の全国大会 東京に行くこと自体が嬉しかった
自分は試合には関係ないと思っていた 日本生命(優勝候補)と当った
出発する時になって、おまえ先発だと言われた 2~3日まえだったら緊張してだめだった
結果は何と4対0で完封する プロのスカウトが之を見ていた
本当は日本生命等の人達を見に来ていたと思う 実力は自分が知っている
とてもじゃないけどプロでは通用しないと思っていた
次に2回で6点取られる(日本生命で自信を付けてその試合に臨んだが)
その年にドラフトの指名を受ける 11番目であったが 半分の人はプロを勧めたが
母親がなにを考えているんだと お前は富士製鉄に拾って貰った人間だと ちょっと野球をやってちやほやしてもらい、ドラフト会議に乗ったと
じゃあ私は行きますとそいうことは通じるかと、世の中で、 しっかり恩返しをして、しっかり皆に喜んで送って貰えるような、そういう事で初めていけるんじゃないかと
母親から言われた
残念だと思いながら引き返した 西鉄ライオンズからだった 私の目標がはっきりしてきた
会社もバックアップしてくれて43年のドラフトで 阪急ブレーブスから1位で指名されて、入ることになる
1年目は2軍野生活 45年に1軍のピッチャーとしてデビューするが、7連敗 投げても投げても負ける 自分はこの世界では勝てなのではないかと、思うようになる
6連敗した時に監督に呼ばれる (西本幸雄さん)
プロ野球の世界で1個人を呼ぶことはまずない もう一回2軍でやり直しなさいと 言われると思っていた
山田 どうだ 体調は? そうだな 山田 一生懸命やっているな そういう姿を見ていると勝たしてやりたい
非常に厳しい状態だからあえて言わして貰う
君に言わなくてはならないのが2つある 阪急は今年は断トツの優勝候補としてスタートした しかし いま5位、6位をうろうろしている
原因の一つに 山田を使い過ぎているからという声が聞こえてくるが、一切気にするな
君を良かれと思って、君に頑張って欲しいと思って、之からも使ってゆくと
しかし 山田 今年は阪急は優勝すると、スタートした
今低迷になったときに チームの中から皆で一緒に頑張っているはずの同じユニホームを着ている
チームの中から 監督、コーチは何で勝てない山田を使うんだと もっと山田より調子のいいピッチャーがいるのに、何でださないんだとチームの中から自分の耳に入ってくるようになった
現場を預かるチームの最高責任者としてこれほど悔しくて情けない事はない 君はそれをどう思う
山田 君が頑張ってるのはその日だけじゃないのかと その日の結果が出ればいいと思っていないか 確かにこの世界は結果がすべてかもしれない
処がこうして旨く行かない 自分の仕事が旨くいかない その時に自分だけ良ければ良いと
今日よければいいと言う風な気持ちでいればそういう意見が出てくる
明日投げるときに山田はどうしてる 前々日はどうしてる やらなくてはいけない事は一杯有るはずだ それを君は怠ってはいないか
其れをもしやらなくてはいけない事、をしっかり自分がやっていて結果がでなかったら、
周りにいる野手の人はどう思うか 山田はあれ程一生懸命にやっていると
真剣にこのゲームの為にいろんなことをしてきたと 、それでも勝てなかったと、
勝てなかったんじゃなくて 、我々が勝たして上げられなかったと 我々に責任が
あるんだと、言う風に野手は思ってくれる
そういう選手、ピッチャーになりなさい と だからそういう気持ちでプロ野球のピッチャーとして考えて行かないと駄目だと とくとくと言われた
この世界はそういう事が大切なんだと思った
今年1年間はどういう成績であろうが どういう1年間になろうが今年は1軍でやって貰う
但し条件がある 毎日投げる準備をしてくれと言われた これはたまらない
成績 17敗しました こんなピッチャーを本当に良く使ってくれたと思う
チームの成績はと言うと 優勝候補のチームがBクラスでした
45年は私としては 非常に自分の中で助かった1年だった
プロ野球の人間としてどうしなくてはいけないか なにをしなくてはいけないかと言う事を教わった
経験した 46年には大変な成績を収めることが出来た 巨人と日本シリーズを戦う
第1戦 巨人 第2戦 阪急(山田投げる) 第3戦 (山田投げる)
第3戦は後楽園で行った 1-0 9回裏 それまでヒット2本に抑えていた 柴田にホアボール
2死 長嶋が出てくる (投手仲間で一番嫌だと言われている)
センター前ヒット 打たれる 次が王 打たれた瞬間判った 3ランホームラン マウンドから立ち上がれない状態 非常に大きなショック 誰も来ない 皆がショックを受けた
心の隙 油断が有った 最後の最後まで力を抜いたり、油断してはいけない事を髄まで教わった
当時は30歳を越えて投手は余りいなかったが、シンカーを覚えて40歳まで出来た
シンカーは誰にも打たれなかったが落合選手から打たれてしまった
人にもシンカーの打ち方を教えてしまう 野球人生が縮じまった
良い出会いに恵まれたお陰 大田先生(ピッチャーへの転換) 中谷監督(富士釜石 アンダースローの体得) 西本監督(プロ野球人としての基本姿勢)