2013年10月6日日曜日

山田清一郎(元教師)       ・戦争孤児となって(戦争平和インタビュー)

山田清一郎(元教師)       戦争孤児となって(戦争平和インタビュー)
神戸市に生まれ、10歳のときに神戸大空襲で戦争孤児になりました
太平洋戦争では山田さんのように、両親を亡くした戦争孤児が多く産み出され、当時の厚生省の調べでは、その数はおよそ12万人に登りました
山田さんは両親の死後、毎日食べる物を求めて、孤児仲間と街をさまよいながら、生活する浮浪児生活を神戸や東京で2年間経験しました
孤児としての人生で心の支えとなったのは、何か山田さんに聞きました

昭和20年空襲で両親を亡くす 3月18日 夜 神戸大空襲で亡くなった 全部焼けてしまった
焼け跡に、母親と一緒に父親の骨を探したが、骨すら残っていなかった
6月5日 昼間の空襲で、防空壕が作ってあり、そこに母親と一緒に逃げ込んだ
焼夷弾がばらばら落ちてくるが、どういうものかあまり知識がなかった
防空壕に入っていれば安全と思っていたが、崩れてきたので、大人たちの誘導で子供が入り口に行き、大人達は生き埋めになってしまった

山の方にただ逃げるだけ、2時間たってから戻ってくるが、防空壕があちこち燃えている
1年ぐらいたって、離れるときに、防空壕に立ったら、土が硬くて取れない、ぼろぼろ涙が出てきて、ここにいる人たちはもう亡くなったんだなあと思った
一人になり、食べなくてはいけない、先ず食い物をどうするか、これが何よりの問題だった
金は無い、誰かにもらう事もできない   落ちているか、落ちていない
食い物を如何に手に入れるかが、生きるかどうかだった

私たち子供たちは大人の居るところには居られなかった 
駅の待合室には大勢の人たちが来ていて生活していた、そういうところは追い出されてしまう
食べるものを探しにふらふらあちこち回って、拾ったり、取ったりして食べていた
食べ物をくれた人はいなかった (拾うか、盗む) 
冷蔵庫より更に大きい壊れた金庫がありその中で、5人ぐらいがそこで暮らした
腹は始終痛くなる 仲間の1人は、特に腹が痛くなり、苦しくて死んでしまった
腹が痛くなることは判っていても、食わなければ生きていけなかった
食べ物を盗んでくうという事に対して、罪悪感は無かった、慣れてしまった

あきらと2人でトマトを盗んで、追いかけられて、広い道路に行ったときに、ジープに轢かれて、トマトを抱いてあきらは死んでしまう
これは衝撃的な事で、私はそのことは忘れられないし、今でもトマトを見るたびに思いだして、食べることができないぐらい悲しい事件でした
周りにいる人たちは、誰もこなかった 浮浪児だし、イヌと同じなので
6月に孤児になって、10月ごろに進駐軍が来て、連れて行かれて、そこで初めてシャワーを使って身体を洗った、それまでは一切身体は洗ってなかったし、着替えるのも一切なかった
今考えると、人間は強いと思った、耐えられる
進駐軍が来てから、あまりに浮浪児が多いので、何とかしろと言う事で、県や市に言ったんだと思います 
野良犬が皆の迷惑だから、汚いから、これを「かりこみ」、と言う形で捕まえてくる、その野良犬が浮浪児だった  小屋に収容した

裸にして、水をかける、そして檻に入れる  思いやりも、優しさも全くなかった
アメリカ人がやるのであれば、判る、敵だから、でも同じ日本人が日本人の子供に、そういう事が出来ると云う事が日本人の冷たさを私は忘れられない
「刈り込み」はアメリカ軍の要請で、県や市が動いたので、県や市の職員がやったのではないかと思う
檻の中に入れられて、食べ物はもらえたが、畑などに連れ出されたが、あまりにもきつくて自由がなくて、殴られたりするから、それが嫌で跳び出したり、、逃げ出したりする
逃げる→つかまる→入れられる→逃げる→つかまる→入れられる その繰り返しだった
何のために施設を造ったのか、この子たちをどうしようとしたのか、何もない

東京に行く  あきらが亡くなって、一人になって、新たに友達が出来て、東京に行こうと誘われて東京に行くことになる
汽車はただ乗り 駅員も改札口で見て見ぬふりをする
復員軍人が来て、列車の中にいて、「戦争孤児は俺達の責任だ」と、涙を流しながら謝ってくれる人もいた
東京に来たら生活のレベルも上がった  金で買えるようになった 金はどこから来たかと言うと、仕切る兄貴分みたいな者がいて、今日はもく拾い(タバコ拾い)をやってくれと言って、金をくれた、買って食う事が出来るようになる

長野に孤児施設ができる  大本営の施設が半分ぐらい出来ていた
そこに内閣、天皇とか、空襲がひどくなったら、避難するという、一角に造られた学習院と言うところに、地元の仏教界の人たちが、孤児の施設を造るという事になる
落ちついたのが12名 
昭和19年ごろから、大本営の施設を作るために強制的に労働者を集めて、防空壕、鉄筋の建物を造るために工事を始めた 
施設作成の為の土地にいる人たちは強制撤去させられた
戦争が終わって、中途で工事は中止、中途半端な大本営の後に、戦争孤児が来た、野良犬が来たという事で凄い反発が強かったみたいです
だから学校に行けるどころではなかった  村を挙げて反対した

精神鑑別審査 地元に対する言い訳のような証明、その後ようやく通学できるようになった
最初は行ったら教室がない 物置を改造したようなところをあてがわれて、そこに入れられた
「犬小屋」「浮浪児小屋」と書いてあった
学校の先生まで同調していたので、悲しかった(温かく迎える教師が一人もいなかった)
学校へ行ったのは3年ぶりとなる  私は中学1年だが、小学校6年で入る
学力を付けるのには自分たちで頑張るしかないと、毎日3時間 読む、書く、暗記の勉強をした
7月には追い付いた
中学卒業まで施設にいた
外国船の船長になるという夢があったが、特別奨学資金の試験に受かれば、奨学金が出ると言うので、受けて、全国で5人のうちに入れて、富山商船学校に入学することができた
1年経ったらお金がでなくなって、辞めざるを得ず、東京に出てきて、定時制に行き始めた

定時制高校に4年、更に大学の夜間に行くが、仕事をする合間を縫って学校に行っていた
30いくつのバイトをする
身分証明書がなくて、住み込み先を追われたことがあり、山手線に2晩寝たことがあった
やんなって、死にたくなった事がある(浮浪児の時はそんなことを考えたことは無かった)
挫折感を味わった 20、21歳のころ
トマトを抱きながら死んでいったあきらのこととか、母親の事とかを思い起こして、ここで俺が死んでしまったら、あの人たちにどうするんだろうと、ふっと突き上げてきて、何としても生きなければという支えになったと思う

将来を考えるようになったのは、大学は定時制2年で、昼間に編入試験を受けて、受かって、独立してやれる仕事、教師の世界が向いているかなあと思った
(自分の体験したことを子供たちに教えられる、人間の生き方、環境が厳しくても自分を活かす)
27歳で、埼玉の中学校に赴任する
17年間 10歳からよくここまで頑張ったなあと自分自身、思う
教師を34年間やったが、17年と34年を較べたら、34年間の方が倍だが、17年間の方が物凄く長くて、苦しかったという事ですよね
思いだすのは辛いことばっかり、苦しいことばっかり、優しくしてくれた人は本当に片手で数えるぐらい
これからが始まりであるのに、やっと終わったという感じだった

あの時を越えたから、今がある
完全に戦争は風化している  戦争孤児と言う言葉さえ知らない
そういう子供たちに、自分の体験を話すことで、自分たちの年頃で一人で生きてきたんだ、周りが冷たい中で生きてきた、戦争がいかにいけないことか、と言う事を子供たちが一番よく感じ、感想文に書いてくれる
強く生きていきたいという事を書いてくれる

「私には戦争を止める力は無いけれど、これから戦争を起こしてはいけないという気持ちだけは
ずーっと持っていたい」、と書いてくれた子がいた
やがて講演、話す事が出来ない事が必ず来るわけなので、できるうちに、できることをやってゆく