吉成信夫(NPO法人森と風の学校代表) 森で子供達を育てたい
1956年東京生まれ 昔から宮澤賢治のファンで度々、岩手県を訪れて、17年前に脱サラして、一の関市に家族で移住しました
石と賢治のミュージアム研究専門員を経て、県立児童館、岩手子供の森館長を一時兼任しながら、
岩手県葛巻町に廃校跡を利用して、自然の中で子供たちを育てようと、NPO法人森と風の学校を2001年に設立しました
学校は標高700mの山あいで、自然エネルギーを活かした循環型の暮らしを家族やスタッフとしています
ここでは四季折々に野菜の収穫、かまどなどを使っての食事造りなど体験する子供スクール、を開いたり、指導者の育成、研修会などを行っています
森と風の学校を始めた狙い、森の中で子供たちを育てることの大切さなどを伺います
子供のころは東京、保谷に住んでいた 当時は魚とりや、なんでもやっていた
大学卒業後、何のために働くのか判らなくて、やたらめったらいろいろな仕事をした 7,8つぐらい
途方に暮れている頃に、「高く遠くに跳ぼうとするほど、助走距離は長い」というむのたけじの詩集があって、その言葉に出会って、ぼろぼろ涙がでてきて、今は助走なんだと、俺が今やっているのは助走なんだと、いつか高く遠くに跳べるかもしれないと思った
そこで自分が冷静に見られるようになった
いろんな業界を歩いているのであれば、コンサルタントトになってしまえばいいのではと気がついた
35,6歳には役員になっていたが、金を稼ぎたいわけでもないので、環境問題と仕事で出会っていた
環境問題にかかわる世界中の人たちと合うようになって、世の中の流れは速く動いているし、うねりを感じた
サリン事件が起きた サリン事件を起こす、前の車両に乗っていた
もしかしたら死んでいたかもしれないと、ショックだった
NGO時代、企業で一緒にやっていた人間が海外で急死してしまった
このまま二足のわらじを履いて限界までやっていたら、自分もそうなるのではないかと、危機感があって、そろそろ生き方を変えないといけない思った
1996年 賢治生誕100年でしたので、その年に決めました
賢治が作ろうとしていた「羅須地人協会」のような学びの場所を作りたいと思った
自分が迷っていると、合わせ鏡のように賢治が童話の世界に現れる
岩手県に誰も知らない中で行った
一関 賢治が東北砕石工場の技師の時代で、その販売で営業のため東京に行って、そこで倒れて「雨にも負けず」ができた
石と賢治のミュージアム 開設の時からかかわった
当時の町長からアドバイザー成ってほしいと言われて、石と賢治のミュージアム、と関わるようになる
石と賢治のミュージアム 抜本的に修正することができた
NPO森と風の学校 廃校を使ってやろうとは決めていた
葛巻町は風サミットをやったり、自然エネルギーに非常に力を入れなじめていた時期
役場に知り合いがいて、話をすると、にこっと笑って5つ候補を提示してくれた
見た瞬間に、ここだと決めた
20代のころは子供は嫌いだった 28歳で子供が生まれて、自分に子供を育てて30代になって子供は好きになり、その後自分の原風景をさかのぼりながら、たどり着いたのが、学校だった
自分が求めたい学校を作りたいと思った
デンマークに昔は農民のための学校、今は生のための学校、どう生きていくかの学校、が100校ぐらいあるが、先生と生徒が固定した関係ではなくて、学びあいの関係、水平上の関係、一緒に
学びあうと云う場所 そういう場所を作りたかった
この場所は周りが森だらけ ロビンフッドが好きでシャーウッドの森 帰る場所が森
森が好き 風は滞らない 「森と風の学校」とした
一番長かったのは19泊20日、子供を預かって自然エネルギーや、未来のことをここで生活をしながら、学びあう場所 四季折々、全国から集まってもらってやる
ハンドメードで畑、住居、花壇 設計もやってゆく 大人のための学校
岩手凡人サミットをやったり、森の中で本を読んだりする活動などもやっている
製糸会社の人に話をして、森も使えるようになった
循環型生活 うんち、おしっこの再利用 電気 太陽光発電している
ここから旅立っていった人がいろいろ活躍している(食べ物にかかわっている人たちが多い)
3.11以後は、特に自分で業を興していってもらいたいと思っている
県立児童館館長 子供にかかわる
当時の増田知事から、全面的に館長としてやってほしいと云われた
県の職員とケンカできるようでないと、上手くいかないとのことで、全面的に任してくれるのか聞いたら、任せると言われたので、やりましょうと云う事になる(決定まで3カ月かかった)
10年で200万人が来た
周りが100軒ぐらいしかないところだが、いろいろ考えて、今は全国でも指折りの児童館として、今も生き延びている
創造的破壊 破壊をしなくてはいけない
もともとあったものが駄目だったら、全部つぶしても、誰かが責任を持ってやり直ししかない
根本的理念から全部メスを入れたので、今だから言えるが、恐怖でした
細かいところの遊具、本等まで私は全て、一緒にかかわった
大人も子供もポケーっとする場所
3.11は非常に大きな影響があったし、与え続けている
津波の被害はもちろんだが、放射能汚染がまだ終結していないし、「森と風の学校」 てどういった所と言われたら、子供たちとこれからの時代をサバブする、生き延びてゆくために必要なものを学ぶ為の学校、それも楽しみながら と思っている
自然エネルギー、生活技術、アート、未来への目、子供の時にきちんと考える芽を育てたいと思った
これから先、東北に未来のモデルのようなものがない
持続可能な地域作りを見直そうと沿岸でも出来てきている
漁師が、自伐林業を始める ところもあって、考え始めている
絵本フェスティバル 3年前から始める 沿岸で3.11前も、直後も、今も、地元に住んでいる方々が、地元の子供のために読み聞かせをやっている方がいて、そういう方々を御招待して、1年間やってきたこと等を含め、交流をつなげながら、繋がりを緩やかに付けていこうとしています
大船渡、震災直後から走りまわっていた人もいた 絵本は子供とも大人とも向き合える
絵本は関係作りのツール
仮設住宅の子供達 表情が違う 大声を出せない
小さい声しか出ない その辛さを感じた
「森と風の学校」に中に森の子育て研修センターが今年出来たが、指導者、支援者の研修を全国回ってやってきたが、この場所に来てもらって、ゆっくりとした時間の中で一緒に学びあう場所を造りたいと思っていて、数を増やしたいと思う
ラジオのメディアは高校生、中学生には一番ぴったりする
ラジオ番組を造るんだったら、堰を切った様にしゃべる
番組を即興で、その場で考えながら、協力しながら作る
日本では子供ラジオがめちゃくちゃ弱い
スウエーデンでは子供ラジオ専門局が3局ある(国営放送)
人の一つのセクターとして、子供と言うものを、社会的に自立してゆく一つのセクターとして認めてもらいたい
子供たちの為のラジオ番組も作りたい
災害FMが任期切れ、お金が無くなって、潰れてゆくので、皆で手を組んでラジオ番組を作って、お互いに配信すると云う事を、来年作ってみたいと夢として思っている